【前回の記事を読む】牛乳が飲みたくて店へ入ったが、文字が読めない。それらしきものを買ってみると牛乳ではなく、今では一般的なあの飲料だった

第Ⅰ部 ヨーロッパ彷徨記

第2章 ヘルシンキからストックホルムへ

2・1 遂にペンフレンドに会う

スウェーデン人のグループがなぜという疑問が湧くが、リーダーのボー・ウインヴェルイがフィンランドで収録したほぼ同じ楽曲の『哀愁のカレリア』の曲名が変形され転用されたようである。

この曲がラジオから流れてきた時には私はまだ中学生であったが、エレキギターが醸し出す、これまで聞いたことのない曲調がなんともセンティメンタルで印象に残っていたのである。

フェリーの周りの靄は、気がついた時にはもう晴れていた。スウェーデン側の湾沿いの斜面に次々と一戸建ての家が現れた。

夏用の別荘にも見えたが、それらがしばらく続き、やがてストックホルムがある島々が見えてきた。

ほどなくしてフェリーはストックホルムの港に入った。岸壁には数人が着岸する船を見守っていた。

その中に赤い模様のあるスカーフを頭にかぶった若い女性がおり、間違いなく文通相手のUlla(ウッラ)と確信した。

しばらく彼女を見つめていると、向こうから手を振り出したので、こちらもそれに応じた。フェリーは静かに着岸し、ゲートをくぐってウッラと対面し、最終目的地に着いたことを確信したと同時に、これから始まる新たな生活に思いを馳せたのだった。

お互いに顔写真を送っていたので、旧知の友人に会うような思いだった。彼女が住むストックホルム市内の場所までバスに乗ることとなり、バス停へと急いだ。

外はすでに日が暮れていて、煌々と輝く街の明かりのもとでバスを待っていた。バスがなかなか来ず、バス停には並ぶ人の数が増えていった。

すると、私はウッラが周りの視線を気にするような気配を感じた。私の足元にはバックパックがあり、それには横浜を出る時に港で買った日の丸シールを貼っていたから、いかにも日本人だと言わんばかりのことをする私に、彼女は引いてしまったのだろうか。

それとも、アジア人と一緒にいることが気まずかったのだろうか。彼女は教育大学の学生であり、そのような偏見からは自由な存在と思っていたが、その確信を確信と保証するものはなかった。

日本は戦後の高度成長を遂げ、電気製品や自動車等で国際的な評価を得てはいたし、川端康成がノーベル文学賞を1968年に受賞してはいたが、まだまだアジア人への人種的偏見は消えてはいないようだった。

この後、フランスで歴然とした人種差別に遭遇することになるが、それはまた後で述べることとしよう。

やがてバスが到着し、バスに乗り込むと驚いた。なんと運転手は女性だったのである。今でこそ日本でも女性のバスの運転手を見かけるようになってきたが、当時はほとんどいなかったと思う。