耳をくすぐる 朝子五十二歳 1

2つほど前の駅を通過した時から、朝子は見られていると思う。こんな感覚は久しぶりだ。自分よりも10歳くらい年下の少し神経質そうな細縁メガネの会社員らしき男。じっと彼が見ているのだ。いや瞠目といっていい。気味が悪い。52にもなって見てくる人なんているはずもない。

それは若い頃はもてた。いや、結婚して30代でも、いやいや40半ばでもまだいけた。買い物の途中でお茶に誘われたり、パート先の直属の上司や出向してきた8つも年下の男……まだまだいたはず。朝子はあれやこれやを順不同で思い出して、ついにまにましてしまった。と、また目が合った。彼はなぜか深く頷いたので目を逸らした。

今日は都心に行った帰りだったので普段よりワンランク上の服を着ている。もう何年も前からこの年代に見合うファッションに苦慮していた。

でも、なんの気なしにインスタを見て、結局のところ、スタイルや髪型、顔の輪郭で似合う服も違うという当たり前のことを思い出し、立ち寄るショップも変化した。戦利品の紙袋を膝の上に抱えて帰るのはことのほか浮き立つ気分だ。50を過ぎてもだ。

午後2時を回った時間。車両ではうたた寝をしている人もいるが、件の男は相変わらずこちらを見ていた。薄手のアタッシュケースは光沢のあるキャメル色だ。降りる時に認めた靴はおそらくハイブランドで綺麗に磨かれていた。だからなんだ。私はもう誰とも付き合う気がないのだ。と年齢の割には猛々しい不遜な気持ちが立ち上ってくる。

改札を通り過ぎて駅直結のショッピングビルに入ってすぐだった。まさか電車を降りてついてきたとは思わなかった。

「あのう、素敵ですね」

無視して前だけを見て歩く。

「ぼくの理想形です」

暗いため息が出そう。あと20若かったら微笑んでいたかもしれない。いや朝子はそんなに軽いタイプではない。黙って早足になる。

「探していたんです」

特徴のないソフトな声だが、しつこいなと腹が立ってきた。

「人違いでしょ」

つい答えてしまった。こんな時は何の反応もしないことが正解なのに。

「いや。間違いない。その耳」

「み、耳??」

ブレーキ音が出そうな勢いで立ち止まってしまった。まだ新しいクレージュ色の低めのヒールがきゅっと鳴った。