それで一月後、私はサンフランシスコ国際空港近くの、兄のレストランでディッシュ・ウォッシャーを生まれて初めてしていた。

兄の店は客席が三十席ばかりの小さい店で、看板も内装も兄と共同経営者の寿司職人Oさんの手作りで、テーブルも椅子も、閉店に追い込まれたダウンタウンのレストランから、格安で買い取ったものだった。

要するに、日本の田舎の小都市のどこにもある、パッとしない、大衆食堂であった。

ところが、行って驚いたのだが、いつも開店前から行列が絶えることはなく、夜の九時半ラストオーダー、十時閉店だったが、いつも、最後の客が帰るのは十一時ころだった。

兄は、18歳でサンフランシスコに来てからコックの仕事を覚えたが、とりわけ修業らしい修業はしたことはない。

ただ、日本に来ると、地域で評判の食堂、レストランを食べ歩き、ラーメン、フライもの、トンカツ等、それなりの水準を維持していた。

その頃、コンビネーションプレートが人気で、ミニステーキ、トンカツ、チキンカツ、から揚げ、エビの天ぷら、刺身、焼き魚等から、二品選べて、7ドル何セントかで、ご飯、みそ汁、サラダ付きで食べられたし、夜は、日本の居酒屋風で、コンビネーションプレートのおかずから、枝豆、ポテトサラダ、シシャモ、ホッケ、カニカマ天ぷら、餃子、もつ煮、串揚げ、牛筋、焼きそば、ラーメンまで出していた。

そして一緒にレストランを始めたOさんは、元大阪のホテル内の寿司屋で職人を十年以上していたので、八席ばかりの寿司カウンターではあったが、何でもワンピース、一ドルで、本格的な日本の寿司を提供していた。

当時はまだ、生寿司はあまりポピュラーでなかったので、サンフランシスコ湾で手に入る、新鮮な海鮮物が格安で手に入り、私もサンフランシスコへきて初めて、美味しいマグロの握りを食べたと思った。

当時バブル真っ盛りの日本企業の駐在員の客もよく来たが、全体として、アメリカ人の方が多かった。

その頃、何でそんなにアメリカ人にウケるのか不思議だったが、それから三十年立って、「本物」の日本食を食べたいがために、日本へ来る外国人が少なくない、最近の事情を知るにつれ、漸く合点した。

次回更新は7月13日(月)、11時の予定です。

 

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