藩主慶邦は、将軍家茂の上洛に随従するため文久三年(一八六三)二月三日、出発し江戸に着、同十八日江戸発、三月二日、入京。将軍家茂も上洛し、二条条に入った。

この時近衛から将軍より一足先に上洛するように促されていたが、三月三日、近衛に対面し参内の周旋を依頼しただけであった。

そして五日、参内したものの携行していた攘夷に関する建白書を提出しなかった。

将軍上洛前の二月二十二日、攘夷派浪士が、足利三代の木像の首を三条大橋の下に曝首(さら)した。

また三月十一日、孝明天皇が加茂社に行幸し、攘夷の祈願をしたことなどから攘夷が沸騰していた。

この風潮の中、仙台藩の建白書は消極的な攘夷論であるため、提出できるものでなかった。仙台藩には、林子平の『海国兵談』や工藤平助の『赤蝦夷風説考』、そして大槻玄沢らによる『環海異聞』など、また養賢堂における蘭学により海外知識が蓄積されていたことなどから、仙台藩の自負から過激或いは感情論に類する攘夷輪に与することができなかった。

しかし一方で、時流に乗れなかったともいえる。このような優柔不断が、公武の周旋を期待されながら不発に終わることになった。

藩主慶邦は、帰国を急ぐ将軍に従い、三月十三日に江戸に戻り、在京十日間で、三月二十三日に帰国した。

言い訳か、京都防衛として片倉小十郎以下二百八十二名を残した。これに対し家中からも、帰国を急がず仙台藩の主張を尽くすべきではなかったかと批判があった。

この頃の仙台藩は、朝廷の求めに応じて上洛、また幕府の参府命令に対し短期間で帰国、或いは名代の参府らとお茶を濁す程度に終始していた。

帰国理由は、自国の海岸防衛や蝦夷地警備、藩主慶邦の「脚気」のため、さらに養嗣子問題というものであるが、真因は、財政窮迫していて長期滞在の費用をまかなえなかったことにある。

 

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