【前回の記事を読む】藩の執政を「因循姑息」と非難した若手武士たち…ついに暗殺を計画するも未然に発覚。首謀者は斬首、関係者も絶食の末に死亡し…

第二章 藩主慶邦の苦悩

二 仙台藩の迷走

帰藩後、遠藤の藩主の単独上洛との主張と、将軍に随従して上洛する準備をしている旨を主張する但木とで激論になった。

自説に沿った結論を得られなかった遠藤は、自分の正義を貫くべく、藩主に願い三好監物を再度の遺使として京に上らせた。

三好は、近衛から「早々に上洛するように」との内勅を得て帰国した。

文久三年(一八六三)正月十八日、年賀の式終了後、藩主の前で片倉小十郎、佐々雅楽、遠藤文七郎、但木土佐と上洛の是非について議論された。

遠藤の「速やかに上洛すべき」との主張に対し、但木は「朝廷の公家は、浮浪無頼の徒の扇動に乗せられている」などと反論したので結論を得られなかった。

この時の但木の意見は、妥当であったと思う。

当時の公家社会は、過激な尊王攘夷派の言動に揺れていた。この日以降、両派の溝が一層深まり抗争に発展した。またその後、但木は、遠藤らが私党を結んで国政壟断を図っている旨を弾劾。藩主は、同月二十八日、遠藤らを処罰した。

これにより仙台藩の単独上洛がなくなった。一方で朝廷の信頼を失ったといわれたが、こればかりが原因ではないだろう。

仙台藩の上洛を求めたのは、雄藩である仙台藩に、孝明天皇が推進している公武合体を諸大名に周旋することを期待したのではないか。

遠藤の尊王は、倒幕までを意味するのか判然としないが、遠藤が主張する仙台藩の単独上洛は、現実的でない。

つまり幕府との関係をどうするか。上洛には江戸を経るのか、或いは海路を伊勢まで、その後、どの方法・経路を取るのか、いずれにしても日数、そして費用が問題である。財政が窮迫している状態では耐えられるのか。また海路を選んだ場合、船の用意ができるのか。この観点からして但木の反対は現実的であるといえる。

その結果、尊攘派が退けられ但木のもとで佐幕派が支配することになった。京都の勤皇の志士らを「浮浪無頼の徒」とだけとらえていたことは、その後の歴史の流れからして妥当ではない。

しかし、当時の京都市中での、勤皇を唱える浪士たちのテロ行為、傍若無人の行動に目にあまるものがあった。これらの行動が正義とはいえないものであることも事実である。

また藩主慶邦の指導力、決断が不十分であった。慶邦は、公議政体派であるが、同じ考えの大名らとどの程度交渉していたか伝えられていない。

土佐藩の坂本竜馬らが唱えた公議政体論は、将軍を議長、薩長、公家諸大名、下級武士で構成する議会における公議により政体を決定するという、西洋の議会制度を模したものである。

これを徳川慶喜、山内容堂、松平春嶽ら佐幕派大名が支持し、薩長の倒幕派と対立していた。