音楽にのめり込んだ高校時代

昭和三十年代、日本の大衆音楽は花盛りだった。民謡、演歌、歌謡曲などの音楽がいつもラジオから流れていた。

一口に歌謡曲といってもその幅は広く、ラテン、ハワイアン、ウエスタンそしてリズム・アンド・ブルースまで、歌を糧に戦後の焼け野原から日本人は立ち直っていった。

当時、日本のポップス歌手が唄う歌は多くがアメリカ製だった。しかし、次第にクラシック出身の作曲家が、「和」の味を加えそれまでの歌謡曲とはひと味違う曲をつくりだしてゆく。

1963年(昭和三十八年)、ビルボード誌で週間一位となった「SUKIYAKI」は、日本名「上を向いて歩こう」で、作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九で世界的に大ヒットした。

武司もほかの若者と同じく音楽に親しんだ。ただ少し違うのは彼は一度のめり込むと、とことんのめり込まなければ気が済まないことであった。

1964年(昭和三十九年)高校二年生の時、気がつけば「和製ダイナマイト娘」といわれたポップス歌手・弘田三枝子の後援会の幹部になっていた。

新宿のACB(アシベ)、銀座の美松などのジャズ喫茶に出入りし、弘田三枝子の出演中は、有楽町の日本劇場や浅草の国際劇場の楽屋への通行証である「門鑑」を持ち、芸能関係者を気取っていた。

國學院高等学校は厳格な校風で、このことが知れたら無期停学や退学は免れなかったかもしれない。授業が終わるや一目散に四谷の後援会事務所に向かい、次のステージ用の紙テープの用意などを手伝ったりしていた。

後援会の用事があれば、女性事務員に母親のふりをして学校に電話をしてもらい早退することもあった。弘田三枝子の後援会活動がいつしか武司の生活の中心になっていた。

授業中も上の空、試験前でも事務所に直行、およそ半年のあいだ全く勉強も手につかないほどの熱の入れようだった。

その結果、中間試験の成績は赤点になってしまい、父親が学校に呼び出された。事態は深刻だった。何しろ武司同様赤点の生徒は退学していく者もいた。

幸い武司は入学直後の英語の学年テストが上位だったこと、文化祭でESSの展示で活躍したことなどで情状酌量を認められ、首の皮一枚で退学を免れることができた。

ボート騒ぎに自動車事故、そして赤点危機……。

いつも中山家のトラブルの主役は武司だった。好奇心旺盛、気の向くまま走り出すと止まらなくなる。

何ごともやり切らなくては済まないという武司だが、実は悪いことばかりではなく、興味の矛先が英語に向かったことがあったのは少し意外な気もする。

 

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