【前回の記事を読む】手形を切る父の背中は、怒りに震えていた。親には知らせず、高校2年生で中古車のオーナーになって…
第二章 天真爛漫、青春時代
スバル360、快走のはずが……
武司が國學院高等学校に通っていた昭和三十年代、東京の街には都電の愛称で親しまれた路面電車が縦横無尽に走っていた。
現在都電は荒川線を残すだけとなってしまったが、最盛期には四十を超える系統があり、総延長距離は二百キロメートル以上に及んでいた。
主な幹線道路には路面電車のレールが敷かれ、都民の足として都電は健在だった。「電車通り」という呼び名は幹線道路を意味していた。
武司が墨田区の家から文京区の小中学校に通った時もこの都電を利用していた。電車通りには、道幅いっぱいに架線が張られ、それを支える電柱が車道の両脇にたくさん立てられていた。
両国橋の東詰めには名物の山くじら(猪)料理専門店の「ももんじゃ」があり、その前の電柱は頑丈な鉄製だった。橋があるため店の前の道幅はボトルネックのように二車線から一車線に狭まっていた。
ある朝、武司は愛車「スバル360」で両国橋を渡り、高校のある神宮外苑を目指していた。前方を大型トラックと都電が両国橋に向かってノロノロと並走していた。
武司は車線が少なくなる前にトラックを抜いてしまおうとアクセルを踏み込み、左車線から追い越しをかけた。
「まずい」と思った次の瞬間、武司のクルマは「ももんじゃ」の前の鉄の電柱とトラックの間に挟まれてしまった。
グチャという鈍い音とともに車体は石油缶のように潰れ、気がつけば原型を留めていなかった。奇跡的に武司にケガはなかった。
だが、手に入れたばかりの「スバル360」はもはやクルマの体をなしていなかった。トラックの運転手が親切にもクルマを鎌田自転車店まで運んでくれた。
運転手は助手席にしょんぼり座る武司をしきりに慰めてくれたが、武司の頭の中は親への言い訳を考えることでいっぱいだった。
武司の説明に、親たちは最初はへこみ傷程度と思ったようだ。しかし、スクラップになる、と聞くとその顔は怒りでみるみる真っ赤になっていった。
その後両親は鎌田さんの店へ出かけ、無残なクルマを見ることになる。あまりの変わりように、怒りもどこかへ行ってしまったようだ。
「よくケガもなく無事だった」と、妙に安堵したようだった。かくしてわずか二か月でマイカー生活は終わりを告げることになってしまった。