中央集権制は紀元前に中国・秦が戦争に効率的に勝つために編み出した国家システムであり、本来、日本のような四方を荒海に囲まれた国には不要な制度であった。

それにもかかわらず、日本は西洋に追随し、闇雲に制度を輸入してしまった。

そして導入した以上、国民の信任を得た強力なリーダーを選び出すシステムを採り入れるべきだったが、それを怠った。つまり、目鼻を付けたもののヘッドをどうするかを考えなかった。

最も重要な問題を放置したため、〝ヘッドレス国家〞として歩むことになる。これが第二の誤りである。

「王政復古」のスローガンを見ると、藩閥勢力は天皇を国のリーダーとして考えていた節がある。しかし、天皇は皇帝や欧州の国王とは異なり、実権を持つ存在ではない。

天皇が権力闘争を行ったのは七世紀の天武天皇の時代までであり、それから約千百年後の江戸時代末までは「太政官―神祇官」体制のもとで統治が行われ、天皇は神祇官として皇祖神を祀る神官の役割を担っていた。

そして、実際の統治は太政官のメンバーが行っていた。平清盛、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康といった権力トーナメントを勝ち上がった者が太政大臣として任命され、天皇と共に国を治めてきた。

日本は一千年以上にわたり、この「二人三脚体制」によって安定的な統治を実現してきた国であった。

藩閥の為政者たちは、そういった歴史を知らなかった。無知ほど怖いものはない。国家的な悲劇を生むことになる。

「太政官―神祇官」体制自体は、明治時代になっても存続している。しかし、それは地方分権制度を前提とした朝廷の組織であった。それにもかかわらず、中央集権制の中でそのまま使われた。

その後、大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」)を制定するが、わざわざドイツまで留学して研究したのだから、国のリーダーを選ぶシステムを導入すれば良かったのに、和洋折衷の欠陥憲法を作ってしまった。これが第三の誤りである。