【前回の記事を読む】長篠城内は緑に囲まれ、城郭のイメージはすでになかった。内堀や土塁の跡が残り、本丸跡を示す石碑が立っていて…

第二章 分岐点

信長は長篠城支援に向かうにあたって、鉄砲・火薬・柵を作るための木材、縄の周到な準備を部下に命じ、陣地構築をしていた。家康に対しては兵糧を事前に送っている。一方武田側は、出撃を前に軍議を開いた。信玄時代の重鎮たちは撤退を進言したと言われている。勝頼は宿老の諫言(かんげん)を斥(しりぞ)け決戦を選択した。

信長は本願寺攻めに取りかかっている時期で、徳川側からの援軍要請を受け入れる余裕はなかった。家康は信長の援軍がなければ武田氏と和を結び、勝頼と協力して尾張へ打って出ることまで考えていたことが『甲陽軍艦』にあると白川の資料にはあった。

つまり徳川家中で武田氏と手を結ぶ選択肢もあった模様で、それは同時に信長と家康の同盟の危機でもあった。信長は三河が滅びれば尾張も危ないという危機感を抱き、それで一転して出陣することにしたことがわかる。それほど武田勝頼を恐れていたし、長篠合戦で決して勝頼に勝機がなかったわけではないことを窺わせた。

武田勝頼の敗因は、五月一日から長篠城包囲を続けて、信長と家康の布陣した情報をつかんでいたにもかかわらず、その後動きがないのを見て相手側は手立てがないのだと錯覚したことであった。長篠城の包囲兵を手薄にして兵の大半を設楽原まで進めてしまったのである。

武田軍は長篠城の包囲を付城(つけじろ)の鳶ヶ巣山砦に拠っていた。そこへ本戦に入る前の五月二十一日早朝に信長・徳川方が鳶ヶ巣山砦へ奇襲攻撃することなど武田側は想像もしていなかった。この戦術は徳川側の酒井忠次(さかいただつぐ)による献策とされている。

信長は当初、鳶ヶ巣を取っても益はないと反対したとされているが、それはこの献策の情報漏洩を恐れてのことであった。そのことは逆に信長がこの奇策を評価していたことを窺わせる。

信長は酒井忠次の献策を採用し、別動隊を編成して鳶ヶ巣山砦の奇襲を命じた。武田側にとっては不意を突かれた格好になり、長篠城の包囲網は崩れてしまった。そのため背後に敵兵を持つことになった設楽原の武田軍は、前後を挟まれ劣勢になった。

信長は二年前の天正元年(一五七三)、室町幕府の再興を企てる足利義昭を追放し、義昭と反信長包囲網を築く朝倉・浅井を攻め滅ぼした。信長の最大の課題は将軍不在の畿内を安定させるための、本願寺門徒の掃討(そうとう)だった。しかし信玄の後を継いだ武田勝頼の軍勢が信長の領国、東美濃に侵入した。また徳川の領国は依然として武田側からの強い圧迫を受けていた。

本願寺を攻めるための信長の河内・摂津出陣計画は武田側に漏れていた。勝頼はこの機を逃さず三河への侵入を開始した。しかし敗戦となった。