足利義満と金閣寺
第三代将軍足利義満は、政治家としても有能で、国内治安の回復と共に、明国との貿易の振興も図り、商業の民営化が急速に進んだ。
将軍自身が好んだこともあり、民間の芸能活動も活発になった。
世阿弥は猿楽から出て能へ、和歌の三十一文字は十七文字の俳諧へと、世間の好みは変化していった。
義満の庇護のもと、世阿弥は「能」という極度に凝縮された所作で、底知れぬ深さの存在を表現する芸能を世に出した。眼前の物の姿を借りて表現する無限の世界である。
「言いおうせてなにかある」「いわぬが花」
その根底にあるものは「禅」の考え方である。
「あると観ればある」「ないと観ればない」禅問答の世界である。
義満は禅の教義に深く傾倒し、その宗派の保護発展に力を注いだ。
不易流行(永遠に不変と見えるものは変わりゆく物の一刻の姿であり、時々刻々姿が変わるように見えるものの本質は永久不滅そのものの仮の姿である)という存在観である。
この考え方は、当時の価値観の根底をなすものとなった。
京の龍安寺の、十五個の石塊を島、とりまく白砂を海とみなし、見る人は永劫の時の流れの中に身を置く、世に言う【枯山水庭園】という夢想国師の庭園造形の根本思想をなすものである。
三代将軍義満の行政手腕は冴え、階位も太政大臣まで上りつめた。
晩年、京の西北にある西園寺家の別荘を譲り受け、金閣寺を建立した。その華麗さは、自らの権勢を楽しむことの外に、海外よりの使者に国威を誇示する目的とも言われている。
金閣寺と並び称されるものに銀閣寺がある。八代将軍足利義政が東山山麓に造営した。応仁の乱収束五年後、自らの隠居所として着工し、工事中にもかかわらず出来上がった建物に居を移した。
疲弊した市民から特別税を徴収して財源とした。庭には池を配し、池に浮かぶ月影を愛したと言われている。
第四代将軍には、義満の子息義持が就任した。まだ九歳であった。幕府運営は、実質的には管領と呼ばれる特定の大名が執り行い、将軍は報告を受けるだけが実態であったとはいえ、この我儘な政権運営は、後年、管領大名間の紛争発生の遠因をなすものとなった。
第四代将軍義持は、成長後は、万事父義満と反対の傾向の政権運営を目指したと言われているが、四十歳前に退位し、嫡子義量(よしかず)十七歳に将軍職を譲った。
室町幕府が正常に機能したのは、四代義持の時代まで。
義満がとった、世事に全く不案内の若年者を将軍に仕立て、それを守護する管領大名に政権の運営を委託するこの方式は、当初は上手く機能したようにみえたが、後世に踏襲される内に、後継者の早死が続いたことなどもあり、管領大名間の利権争いも絡んで、幕府は組織による統率力を失い、やがて室町幕府が衰退の一途をたどる原因となった。