【前回の記事を読む】「子どもの命か、妻の命か」——医者に2択を迫られて、迷うことなく「妻を」と答えた。赤子の身体はドドメ色に変色していき…

父への本心

わたしがやがて母になり、ある病院を受診した時のことである。わたしの名前を見た看護師さんが、「あなた生きてたの? 大きくなって」と、不思議な眼差しでわたしを見つめた。聞けば当時産院にいた方で、生き延びた「奇跡の赤ちゃん」としてわたしに出会っていたそうだ。

なすすべもなかった赤ちゃんが、急に泣いてみなで顔を合わせ駆けつけたら生きていたと。父はその時も相変わらずタバコをくゆらせながら一点を見つめ、「子どもは諦める。妻を助けてくれ」と、懇願したらしい。父の固い意志は認められ母も奇跡的に助かった。

わたしはきっとその言葉を聞きながら、父を裏切ろう。この時こそ、生まれてすぐに裏切って、親を喜ばしてあげようと思ったのだろう。兎にも角にもわたしは生きた。

父の決断を初めて聞いたのは、わたしが中学生の頃だった。その頃のわたしは少し遠い学校に通っていたため、毎日父の自転車の荷台に乗り送ってもらっていた。

当時の我が家には車がなかった。父も免許はなくマイカーは自転車だった。道もその頃は砂利道で、わたしと父はよくコケた。砂利道は転んでもかすり傷程度で、車も通らずわたしと父は転がったまま青空を見ていた。アスファルトの道路が整備されると、自転車の車輪を取られることもなく青空を見ることは少なくなった。

今思えば、わたしたちの年代は戦争が終わり十数年の後に生を受けた年代である。その頃は、活気にあふれ次々に新しい物が増え、わたしは、つい最近まで戦争があったことなど気がつかなかった。ただ、祖母の写真に竹やりを持ち誰かに向けていた写真があり、それが戦争の爪痕だったと知ったのはかなり大人になってからだ。

父は、遅刻もさして気にしなかった。朝礼の始まっている校庭に父はベルを鳴らしわたしを乗せてつっこんでいく。「よくつかまってろ」。わたしは恥ずかしさより、父の潔さと常軌を逸した行動が、誇らしく、しかし、頭を下げながら、自転車の荷台から飛び降り整列した。

父は、わたしに何を見せたかったのだろう。常軌を逸しても気にしないで生きる力か。大丈夫、十分備わっている。

坂道をわたしを乗せながら立って自転車をこぐ、すこし高い父の背中に問いかけたことがある。

「お父さん、なんで、二人助けてと言わなかった?」父の答えは決まっていた。