「交渉」が決まると、昼近かったので、私は焼肉定食を奢ったが、春夫さんはそれ以上、何も私に要求しなかった。

ただ、要らなくなったシグマを山本に譲ってやってくれと言った。山本は、最近、九州から来て、一般の土木作業員として会社に入った、30代の独身男で、仕事は極めて真面目だったが、何故か、春夫さんに気に入られていた。

それで、彼はしばしば春夫さんのシビックを借りていたが、ある時、ダッシュボードにピストルが入っていた、と聞いたことがあった。

そういう話を聞きながらも、若かった私は、平気で春夫さんに、安い中古車の紹介を頼んだりするのだから、どうにもならない。

何で「生真面目な山本」が、春夫さんの車を借りたり、時々、夜、一緒に遊びに出たりしているのかという事も知っていて、何も疑問を持たなかったのは、今、考えると呆れるしかない。

だから、その時も、私は、カリーナが納車になると、すぐシグマを取りに来た山本が、「即、名義変更するから」というのをそのまま信じて、車を渡したのだった。

二年間の現場仕事を過ぎると、鬱病は完全に消え、顔の日焼けは冬でも抜けることなく、手は分厚くなり、指の形まで変わり、体重は90キロ近くになっていた。

しかし、鬱病が消えてみると、この頃から一人になると何かの拍子に「お前は何をしているのか?」という心の声が頭を過り、茫然とするようになり、それが次第に頻繁になって来た。

ただ、こうした心の隙間ができたのには、私の仕事の変化にも原因があったろう。

私は土木技術の仕事を覚えるにつれ、年間、幾つも違った現場で、舗装道路、下水、護岸ブロック、圃場整備等、違った構造物を手掛けねばならないこの仕事が益々面白くなっていた。

人間の思惑が簡単に通用しない「自然」を相手に、これまた、大体が重く、フレキシビリティがない、コンクリート、鉄筋、鉄板、アスファルト等の建材を使った仕事をしていると、若い空想や妄念が次第に消えて行って、精神の平衡が保たれた気分になるのだった。

次回更新は6月22日(月)、11時の予定です。

 

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