早速、牛若は冥界へ通じるという氷川の奥へ向かった。
だが、いったい広大な冥界のどこに父がいるというのか。それにまだ乳飲み子だった頃に死別した父だ。はたして親子だとわかるのか。一抹の不安は拭えない牛若だったが、兵法の極意という『虎の巻』への想いは高まるばかり。それが手に入れば武士の世をつくるという悲願への第一歩となる。
冥界への入り口といわれている井戸を牛若は下りていく。
ここでは、これまで習得した技、術は役に立たないだろう。現世の理の及ばない場所だ。それにあまりに広大深淵と聞く。うかうかしていると有象無象(うぞうむぞう)の怪しげなものに取り込まれてしまう。今まで以上に心身の強靭さを求められる世界だという。兵法の極意の第一歩は人智を超えた先にあるもの。牛若はそこで大天狗の意図を悟った。
そうして、人の欲という欲を見せられる幻惑・魅惑の世界、あるいは生まれたての赤子(あかご)に戻った己の心もとない姿を見せられる。また何層にも折りたたまれたこの世ならぬ世界を潜り抜け、ようやく辿り着いたのは「九品浄土(くほんじょうど)」だった。
突然、牛若の前に神々(こうごう)しい光が現れた。
一瞬身構えたが、それは如来に生まれ変わった父だった。不思議なことに、言葉も交わさず見つめ合うだけでそれがわかった。苦労してやって来た息子に、父は慈愛の目を向けていた。
――牛若よ、よう来た。よう来たのう。して、ここを訪ねてきたのは何ゆえだ。
「鞍馬の大天狗より聞き及びました兵法の極意『虎の巻』をお授けいただきたく」
――うむ、そうか。はるばる来てくれたのは嬉しいが、ここにそれはない。
父は声も発さず、牛若の意識に直接語りかけていた。
――はるか昔、兵法書『六韜(りくとう)』が、周の太公望によって作られた。
『文、武、龍、虎、豹、犬』の六巻からなるそれは、中でも『虎の巻』が秘法中の秘法、兵法の極意といわれておる。その『虎の巻』の書写を吉備真備(きびのまきび)が唐より持ち帰り、この秘法に相応しい者が現れるまで鞍馬の寺に厳重に納めたのだ。
しかしどういう術を用いたのか、今は鬼一法眼(きいちほうげん)という怪しげな輩の手に渡っておる。だが『虎の巻』は、それ自身が相応しい者を選ぶといわれておる。真に相応しいとなった者は完全無欠の覇者となるのだが、さてその鬼一法眼なる者はどうであろうかの。手に入れるだけでは何の用もなさぬ。
お前はどうじゃ。その『虎の巻』に相対する覚悟はあるのか。
そこでふっと父の姿はかき消えた。
「相対する覚悟はあるのか」牛若は父の言葉を噛みしめた。
その後、急ぎ戻った牛若は大天狗に事の顛末(てんまつ)を報告した。
「なんと、あの外道(げどう)の鬼一法眼の手に渡っておったというのか」
『虎の巻』が失われてから手を尽くして捜したが、大天狗にさえ行方がわからなかったのは、巧妙狡猾の鬼一法眼に翻弄されていたということだったのだ。
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