【前回の記事を読む】浅ましい住職…檀那寺の住持は60歳で禿げ頭の手前も顧みず、最近若い妻を抱えたらしい。亡き父の墓参りに行くと…
短篇
藪の村
下
露に洗われた若い紫籜(たけのかわ)の間から、艶々しい肌を見せた若竹は、まだ小児の背丈ほども延びていなかった。
背戸(せど)の僅わずかな空地を畑にして作った胡瓜が、早や拇指(おやゆび)ぐらいに肥えて沢山に生なっている。
お近はそれを東京への土産にといって、自身で摘みに出た。何処(どこ)かで野鳩の気疎(けだる)い聲で啼くのが聞こえる。
東京の街路では僅かな風の日にも見られる砂煙のような夕餉(ゆうげ)炊く煙の、あちこちから立ち昇るのが、殊に静かな藪の村の夕暮れを、秋の暮れのように思わしめた。
お近は急に何か思い出したように四辺を見廻して、瓜畑から裏の藪中道を抜けて、鎮守の森へ向かって行った。森とは名ばかりで杉の老樹が七、八本立ってるばかりである。藪蚊の鳴くのが幽(かす)かに耳近く聞こえる。
お近は小さな石の華表(とりい)を潜って、拝殿の前で一寸(ちょっと)額ずいてすぐ宮裏へ出た。流石にお近は躊躇(ためら)った。
宮裏へ出ればすぐに東作の屋敷が見えるからだ。折柄(おりから)そこの庭先(さ)きでクツクツと鳴き騷ぐ五、六羽の鶏を鳥屋へ追い込んでいる女があった。
お近はすぐにあれが東作の女房であろうと考えた。そして三年程前に東作の親爺が死んだことや、その後東作は直に嫁を貰ったんだという事を聞いていたことなどを思い出した。
村も痩せたが人も年老(と)った。
お近ははかない自分の昔の初恋と、その恋人の東作とを胸に描いて見た。が今はもうすべて夢の跡であった。
けれどもお近はしかすがに(そうはいうものの)懐かしい旧情人の様子を知りたい。せめて垣間見なりとも男の面影をとの願いは、帰宅以来絶えず胸に往来してるのであった。
夕靄(ゆうもや)は次第に四辺に迫ってくる。ふと後方に人の気勢(けはい)がした。