男の涙混じりに鼻を啜る音が部屋の空気に蔓延していく。硬く尖った肩を震わせて、なぜダイスケまで泣いているのだろう。「絶望なんてもとからどこにもないじゃない、かわいそうね。ほらこちらにいらっしゃい。もっと私を満足させてくれたらすぐに天国へ帰れるわ」
暗い廊下の先のバスルームからそんな女のくぐもった声が聞こえ、それはどこかさらに遠くの静寂に抱かれた温もりと目の前の混沌の間を穏やかに揺れ動く意識と脈動がすっと途切れてしまいそうな瀬戸際で、声を荒げながら啜り泣く彼のひとり言を誘惑しているのだと思う。
部屋の角隅で泥酔しているように見えたオリエンタルの母親は、いつからか我に返り母性を取り戻した優しくはかな気な表情で腕に抱いた赤ん坊に母乳を与え、その赤ん坊の安息が自分の呼吸と重なってまるでその乳飲み子自身になったような錯覚にとらわれそうになる。
「交通情報センターの姉ちゃんが『順調です』なんてよお、『事故の処理は終わって順調に流れてます』なんて、つらつらとまあ言ってるんだ。俺なんかに会いにな、わざわざ那覇から上京してきて、バッカかこの。
右も左もわからんくせに、辻の路上でおとなしくポン引きしとりゃ良かったんだ。あの頃はまあ俺は人でなしだったよ。でもいいのか? そしたらチューブだぞ、チューブなんか流しやがって。夏だったんだ」
ダイスケのとなりでマサは何度も聞かされて覚えた音楽のリズムに合わせるように放心しながら頷き続けている。
「車を路肩に止めて、俺はただ天気予報を待ってたんだ。『あとは雨が自然に流してくれるから』なんて、おまわりが通行止めを解除して、言うもんだから、何だか母ちゃんが踏まれてくように見えて堪んなくて、すっかり梅雨が明けちまってたから気がかりでよお。そしたらチューブだぞ、そのとき通っていったくだらない奴らの顔を俺は全部はっきりと覚えてるんだ」
「フリーズ! ドンムーブフリーズ!」
突然玄関が無造作に開け放たれて、細く不格好な婦人警官が拳銃をこちらに向けて入ってくる。