1. プロローグ
まだいまも軽い耳鳴りがする。それに、いつもより嗅覚が一層鋭敏になっているせいで、思わず顔をしかめて息を止めた。
さっき車を降りたときに見た月は、確かにほのかな火薬のような香りがした。
そして、スパイシーなムスクの香水と、黒人女性のデリケートゾーンに塗られたローズ系のデオドラントなどが湯に溶けて混ざり合い、古い壁画の記録のように染みついた脇汗の臭いに熱されて乾いたものが、止めた呼吸の血流に紛れ込んで体中をめぐっている。
ランドリーマシンの湾曲したドラムの中には、そんなことを思わせる臭気と鏡のような暗い光沢だけがあって、僕は先客の取り残しが何もないことをちゃんと確かめてから、仕事で付着した魚介類の腐敗した臭いのする衣類をその中にすべて放り込んだ。
二枚のコインをスライド式のクロームのスロットにセットして強く押し込むと、金属同士が弾けて落下する音が誰もいないランドリールームに響き渡る。
持ち込んだ粉末洗剤と柔軟剤を忘れずに入れて、「カラーズ」のボタンを押すと四十分のカウンターが赤く点り、年代物のランドリーマシンは「ゴトン」といかにもアメリカらしい豪快な音を立てて動き出すが、この国の規格にするとキッズサイズでも探せそうな衣類のかたまりをまわすには少し大げさで、わけもなく古いブルーノートスケールのピアノソロが聴きたくなった。
自宅のアパートメントコミュニティから十分ほど車を走らせた場所にあるこの小さなショッピングモールには、低所得者層をターゲットにしたニァヴァーナ(おそらく涅槃と音写された原型語)と読めるネオンサインを灯す清潔感のないコインランドリーが店の並びの一角にあり、二十四時間営業だがこんな僕のように、わざわざ好き好んで深夜に訪れてくる客の姿はまだ見たことがない。