「人生って不思議よね。あの時婚約を解消してなかったら、お父さんと出会うこともなかったし、恵美が生まれることもなかった。ひとつの選択で、人生は大きく変わるのよ」

「そうだね……」

私は母の言葉を噛みしめた。

母の人生には、私の知らない歴史がたくさんあった。喜びも、悲しみも、迷いも、決断も。すべてが積み重なって、今の母がある。そして、その延長線上に、私がいる。

「お母さんの人生、もっと聞かせて」

「いいわよ。何が聞きたい?」

「全部。お母さんのこと、全部知りたい」

母は嬉しそうに笑った。

「全部話すには、何日もかかるわよ」

「いいよ。時間はたくさんあるから」

私は録音したデータを整理し、文字に起こす作業を始めた。

母の言葉を一つ一つ丁寧に書き起こしていく。それは時間のかかる作業だったが、私にとっては大切な時間だった。

母の声を聞きながら、母の人生を追体験する。笑った場面では私も笑い、泣いた場面では私も涙を流した。

こうして残した記録は、いつか母が全てを忘れてしまったときに、母自身に読んで聞かせることができる。そして、母が亡くなった後も、私が母を思い出すためのよりどころになる。

「お母さんの人生を、本にしようかな」

ある日、私は母にそう言った。

「本?」

「うん。お母さんが話してくれたこと、全部まとめて。私家版の自叙伝みたいなもの」

母は驚いた顔をした。

「そんな大げさなもの、私の人生にあるかしら」

「あるよ。お母さんの人生は、私にとって宝物だから。それを形に残したいの」

母の目に涙が浮かんだ。

「ありがとう、恵美」

「完成したら、一緒に読もうね」

「ええ、楽しみにしてるわ」

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家のトイレがわからない母のために、家中のドアに紙を貼った。『トイレ』、『台所』、『お母さんの部屋』

 

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