【前回記事を読む】深夜2時に物音が…リビングへ行くと、パジャマの上にコートを着た母が立っていた。「外で、お父さんが呼んでる」と玄関へ向かい…
第十章 記憶を紡ぐ
録音は何時間にも及んだ。
母の子供時代、学生時代、就職、結婚、出産、子育て。人生のあらゆる時期について、母は語ってくれた。
時には記憶が曖昧なこともあった。年代が前後したり、人の名前を間違えたりすることもあった。でも、私はそれを訂正しなかった。母の記憶を、母の言葉で、そのまま残しておきたかったのだ。
「私が恵美を産んだときのことはね、今でも鮮明に覚えてるわ」
ある日、母はこう語った。
「陣痛が来たとき、すごく怖かったの。初めての出産だったし。でもね、あなたが生まれて、初めて抱っこしたとき、怖さなんか全部吹き飛んだわ」
「そうだったんだ」
「こんなに小さな命が、私のお腹にいたんだと思うと、不思議でね。そして、この子を絶対に守らなきゃって、強く思ったの」
母の目には、涙が浮かんでいた。
「恵美は、生まれたときから、とても穏やかな子だったわ。あんまり泣かなくて、いつもニコニコしてて。看護師さんたちにも『こんなにおとなしい赤ちゃん、珍しいですね』って言われたの」
「私、そんなにおとなしかったの?」
「ええ。でもね、夜泣きだけはすごかったの。毎晩のように泣いて、お父さんと二人で代わりばんこにあやしてた」
母は笑った。
「お父さんはね、夜泣きのたびに恵美を抱っこして、家の中を歩き回ってたわ。『よしよし、大丈夫だよ』って優しい声で話しかけながら。無口な人だったけど、恵美のことは本当にかわいがってた」
私は父の姿を思い浮かべた。無口で、不器用で、でも温かい人だった父。もう5年も前に亡くなってしまったけれど、母の記憶の中では、まだ生きている。
「お父さんに会いたいな」
私が呟くと、母は優しく頷いた。
「私もよ。毎日会いたい」
録音を続けていくうちに、私は母の人生について、知らなかったことをたくさん知った。
母が高校時代、バスケットボール部のキャプテンだったこと。大学受験に失敗して、1年間浪人したこと。最初に就職した会社を半年で辞めたこと。父と出会う前に、別の人と婚約していたこと。
「えっ、お母さん、別の人と婚約してたの?」
私は驚いて聞き返した。
「そうなのよ。大学の同級生でね。卒業と同時に婚約したの」
「でも、結婚しなかったんでしょ?」
「うん。婚約してから半年くらいで、価値観の違いがはっきりしてきてね。彼は専業主婦を望んでたんだけど、私は働き続けたかったの」
「それで?」
「結局、婚約を解消したわ。周りからはいろいろ言われたけど、後悔はしてない。だって、そうじゃなかったら、お父さんと出会えなかったもの」
母は遠い目をして微笑んだ。