「お母さんはすごいよ。本当に」
「何言ってるの。恵美が教えてくれたからでしょう」
「でも、覚えようとしなかったら、いくら教えても意味ないじゃん。お母さんが頑張ったんだよ」
母は照れくさそうに手を振った。でも、その目は嬉しそうに輝いていた。
しかし、すべてがうまくいくわけではなかった。ある夜、母が突然泣き出したことがあった。
夕食後、二人でテレビを見ていたときのことだ。認知症をテーマにしたドキュメンタリー番組が放送されていた。進行した認知症の患者が、家族の顔もわからなくなっている様子が映し出されていた。
「チャンネル変えようか」
私がそう言おうとした瞬間、母が嗚咽を漏らした。
「お母さん!」
私は慌てて母の肩を抱いた。母は両手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……怖いの」
母の声は震えていた。
「私も、ああなるのかなって。恵美の顔もわからなくなって、自分が誰かもわからなくなって……」
私は何と言えばいいかわからなかった。大丈夫だよ、と軽々しく言うことはできなかった。認知症が進行すれば、そうなる可能性は確かにある。嘘をつきたくなかった。
「……わからない。正直、私にもわからない」
私は正直に答えた。
「でもね、お母さん。たとえお母さんが私のことを忘れても、私はお母さんのことを絶対に忘れないから」
母は泣きながら、私を見つめた。
「お母さんが私を産んでくれたこと。育ててくれたこと。たくさんの思い出を一緒に作ってくれたこと。全部、私が覚えてるから。だから、お母さんは一人じゃないよ」
母は私を強く抱きしめた。私も母を抱きしめ返した。二人して、しばらく泣いた。
その夜、私たちは同じ布団で眠った。子供の頃に戻ったみたいだった。母の寝息を聞きながら、私は天井を見つめていた。
怖いのは、母だけじゃない。私も怖い。母が変わっていくことが。いつか、母が私のことを忘れてしまうかもしれないことが。
でも、今はまだ、こうして一緒にいられる。一緒に笑えるし、一緒に泣ける。この時間を、大切にしなければ。
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