【前回の記事を読む】ある1月の午後、家に父の姿がなかった。今日は非番だったはずだが……何の用で城に行ったのか? 夕方になって父は…
一 初出仕
屋敷全体が静まり返っているようで、あまり物音がしない。
徳三郎は下駄をはき、屋敷内を歩いてみた。その時、門から一人の総髪の男が付き添いのものに荷物を持たせて足早に入ってきて、屋内に上がっていくのが見えた。
それから小半時、父が奥からあたふたと出てきて、徳三郎に言った。
「徳三郎、馬を出せ」
「え、何事でございますか」
「直元様の御容態がひどくお悪いようじゃ、上屋敷の殿にお伝えしてまいれ」
父はそれだけ言うと、また急ぎ足で奥に戻った。
徳三郎は馬を引き出して乗ると、江戸の夜の街をかけ出した。外灯もない真っ暗な道であるが、上屋敷と中屋敷の間を三日に一度は行き来しているので、目をつむっても歩けると言えるほどよく知った道である。
松平出羽守、土井大隅守の屋敷前を走ると左に曲がり、渡辺丹後守、松平対馬守、松平備後守、大村丹後守、細川山城守、木下図書守、真田信濃守らの屋敷が続いている。
それらの屋敷沿いの道を抜けるとやがて道は井伊家の上屋敷にぶつかる。
静まり返った大名屋敷の間をカッカッという馬のひづめの音が闇を切り裂くように響き渡ると、途中の屋敷から門番が驚いて飛び出してきて何事かと見送っている。
「開門! 開門!」と、徳三郎は上屋敷の長屋門で馬を飛び降りながら叫んだ。
「中屋敷からの緊急の御用でござる」という徳三郎の声を聞き、くぐり戸を開けて門番があわてて出てきた。