序 裏切り
もがいていた。何度も水を飲んだ。ようやく足が地に着いたと思ったら、強い引き波に足元の砂がずるずると崩れるようにもっていかれ、またもや彼の足は宙に浮いた。
抗(あらが)いようもない大波に彼は翻弄されていた。その中を必死にもがきながら彼はあたりを探し回っていた。たしか誰かを助けようとしていたのだったが、その人物はあたりには見えなかった。誰だっただろう。いや、それは人ではなかったかもしれない。
馬か? それともまだ見たこともない象とかいう巨大な動物だったか。半ば覚醒しつつある彼にはそれが何かはっきりとはわからなかったが、何かとてつもなく大きな存在だったように思えた。
彼にはそれを救い出すことなどできそうには思えなかったが、どういうわけか、それでも彼はそれを救おうともがいていたような気がした。
また水を飲み、彼は必死に水面に顔を出そうと足を蹴った。ぐっしょりと汗をかいて彼は目を覚ました。見慣れたふすまが目に入った。
「そうだった」と声に出して呟いたとたん急に意識がはっきりした。昨夜藩の運命を決する会議がこの藩邸で行われたのだった。
…………
徳川慶喜が将軍位を返上し、朝廷を中心とする新政府が誕生したばかりだった。十万石以上の大名は諸藩会議に出席するように要請されて、彦根藩主井伊直憲が京都藩邸に詰めていた。
そして数日前、朝廷を牛耳っている薩摩と長州は勅命の名を借りて京都守護職松平容保と京都所司代の松平定敬を解任し、朝廷守護についていた会津と桑名の兵を追い出したのだった。
徳川慶喜が滞在している二条城に引き移った会津兵と桑名兵を中心とした旧幕府軍は、彼らを新政府から締め出そうとする薩長の強引なやり方に憤激し、薩長を討つといきまき、今にも御所に軍を向けようとしていた。
旧幕軍からは彦根藩に二条城の守備に就くようにしきりと要請があり、彦根藩内ではすぐさま二条城に駆けつけようと主張する派と、新政府に協力すべきであると主張する派との間でもめていた。