【前回の記事を読む】「余は朝廷にお味方しようと思う」十八歳の藩主は決然と口にした。それは彦根藩井伊家が徳川家に反旗を翻した瞬間だった
一 初出仕
母はすでに部屋で待っていた。
「母上、ただ今戻りました」
彼は両手をついて母に言った。
「お帰りなさい。芳蔵には会いましたか」
「はい、会いました」
「では、芳蔵から聞いていますね」
「いえ、何も聞いていません。母上からお聞きするようにと言っておりましたが、父上の身に何かあったのですか」
「そういうことではありません。徳三郎、父上から江戸に参りますようにとのお話です。芳蔵が供をしますので、十日後にはお発ちなさい」
母の表情はどことなく寂しそうであった。父は殿の近習として、参勤の供をして、この数年一年おきに彦根と江戸を行き来していた。この年は小納戸役として江戸で殿様の側仕えをしていたのだった。
母は父が江戸にいる間、彦根で留守宅を守っていたのだが、今また、長男の徳三郎を手放さねばならなくなったのである。徳三郎は今年十八歳となっていたがまだ無役であった。
彦根藩では三百石以上の武役席にある藩士の長男は、十五歳前後で成人になると小姓として召し出されることが多い。
父三郎左衛門は小納戸役として、殿の身辺の世話を行っていた近習の一人だったので、徳三郎も数年前からその有資格者だったのだが、なかなか呼び出しがなくじりじりしていたところだった。