親徳川派は約六割、新政府側は約四割で藩内は真二つに割れていた。藩主側役 (そばやく)の彼は、いま彦根藩が二つに割れてはならないと、藩主に進言し藩論を統一するための会議を開くことになっていたのである。会議が紛糾するであろうことは必至だった。

井伊家彦根藩の藩主直憲はこの時十八歳の若さで、さすがに会議の成り行きに不安を覚えていた。

昨夜藩主の前に伺候した彼は「会議は紛糾いたしましょう。藩士の意見が二つに割れている現状では、結論がつかぬことになるかもしれません。これを抑えることができるのは殿の決断だけでございましょう。

どうぞ皆の意見を十分にお聞きになった上で、殿の最後のご決断をお話しくださりませ。そして、一旦ご決断なされたら揺らいではなりませぬ。藩を上げて殿のご決断に従って行動いたします」と述べていた。

「ようわかった。そうすることにしよう。ところで田中、お前はどちらを支持するという意見なのだ」と直憲は不安を隠せぬ様子でそう言った。

「私の意見は会議において申し上げたいと思います。それまで殿様ご自身でお考えをおまとめになり、会議の席で諸士の言い分をよくお聞きくださいませ。

そして、最後に殿のご決断をお示しくだされば、それが私の考えと異なるものであっても、私は殿のご意見に従いますし、勿論、藩士全員も殿についてまいります。最後は殿のご決断がどれほど確固たるものかによります」と彼は答えた。

彼の意見は決まっていたが、どちらになるにせよ紛糾する会議を最終的にまとめることができるのは藩主の強い意志と覚悟以外にはないと思っていたので、あえて意見を述べるのは控えたのである。

こうして、京都彦根藩邸の大広間で会議が開かれることになった。在京の士分のものは全員出席が求められたが、知らせを受けて彦根から駆けつけたものも大勢いた。

 

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