【前回の記事を読む】「明け方から奇妙な町人が座り込んでおりまして…」話を聞くと、それは前に命を救った盗人だった
一 初出仕
小姓の徳三郎は殿の就封の供をして彦根に戻ったり、参勤のためにまた江戸に行ったりと、一年おきに彦根と江戸の間を行き来していた。
父は徳三郎が小姓となって以降は江戸詰めが続いており彦根に戻ることはなかったが、その間父三郎左衛門は小納戸役から表用人となり、さらには城使役兼帯となり、幕府との折衝などで忙しい日々を送っていた。
用人は国元彦根においては家老・中老に次ぐ役職で、藩主はじめ世嗣・庶子、正室・側室以下の奥向き支配と、奥向き勤めを行う歩行身分の支配を行う重職である。
彦根においては御用番に当たっている家老宅で月六回行われる「御用番御用会」に出席して藩政の相談にあずかる役目で、主として五、六百石以上のものがその役についた。
しかし、江戸にある時はそれより軽輩のものがその役につくことが多かった。
江戸における用人は江戸家老と共に公私にわたって藩主を助け、藩主の生活・行事・公的役目などが滞りなく行われるように相談し仕事の分担などを家臣に伝え、監督する役目である。
側用人は藩主の私事を中心とし、表用人は藩主の公的な用向きを藩内・家中に伝えて、相手方と折衝して庶務をつかさどる役目である。藩主が老中・大老に就任すると、表用人の仕事は藩主の仕事が国事になることから、その用向きを幕府諸役人に伝える役目となり、「公用人」と呼ばれる。
藩主直亮は父三郎左衛門が表用人になった時は、大老職を辞したばかりの時で、父は公用人としての忙しい日々を送らなくてよかったが、それでも、この時期外国の船が江戸湾を訪れ、幕府はこれらの船舶を打ち払うか、それとも必要な水や薪炭を提供するかで意見が分かれ、右往左往していた時である。
父が表用人になって間もなく、川越藩と忍藩に江戸湾警衛の幕命が下ったが、彦根藩にもいずれどこかの持ち場が割り当てられるのではないかとの心配があった。
これは藩としては大事件であった。藩兵を派遣して常駐させるための手当てや、大砲の鋳造や砲台の建設など新たな出費が重なることになる。父は八方を飛び回り、幕府のお小人目付やその他の役人、あるいは殿に付き添い江戸城に赴く時は数寄屋坊主から情報を得ようとしていた。