牛乳パック
一九八八年頃のことでした。
垣根の奥に、珍しい白い洋風の館があり、お爺さんが一人で住んでいました。
一〇年前に大学教授を定年退官したお爺さんは、庭の草木を観察するのが趣味でした。
妻は随分前から別居し、娘家族と暮らしていました。
「こんにちは」
「や~~君かい」。雑草が生い茂る庭、草木に見え隠れする小柄なお爺さんは、植物を観察しているようです。
「この前は、植物学のお話ありがとうございました。今日は気になることがあってお邪魔しました。お部屋に積み上げられている牛乳パックのことですが、全部飲まれたのですか?」槐は思い切って訊ねました。
一リットル空きパックは六畳間を占領していました。
「牛乳が食事ですよ」とお爺さんは衒(てら)いなく言います。変わった食事なので槐は驚きました。
『草木は地中から栄養水、空から日光と雨水等を受けて生存し続ける。僕も同じですよ』と言われたように思いました。
そうであっても「ヘルパーさんに調理や洗濯をお願いしましょう」と持ちかけました。
ある時、児童民生委員さんが困った顔をして役所に来ました。
「お爺さんの家の樫の木の枝葉が道路を覆い、車が避(よ)けて走るので、通学路の子どもたちが危険です。枝を切るようお爺さんに言ってください」でした。
お爺さんが大切にしている木です。困りましたが、担当の土木課がお爺さんに引導を渡し、土木課で切ることになりました。
槐はお爺さんを悲しませる役を免れたのでした。
数日後、槐はサツキヘルパーさんと、お爺さんを訪ねました。
「枝を切られ、片腕を切られたようだ」と切なく言うお爺さんが哀れでした。
でも、サツキヘルパーさんに、一枚の汗色になったシャツを洗ってほしいと部屋から持ってきたお爺さんは、もう笑顔になっていました。
「洗って」と家族に言えても、他人にはちょっとやそっと言えるものではないですね。その心が分かるだけに、任せてくれてありがとう。
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