【前回の記事を読む】3歳の娘が高熱で倒れた夜、医師は「単なる風邪だろう」と言って帰った――その数時間後、取り返しのつかない事態に……
敵(かたき)
前編
3
江戸赤坂で打ちこわしが起こった。七年連続の凶作で米価は天井知らずとなり、さらに悪徳商人が買いだめして売らず、庶民の怒りが爆発したのだった。それが全国に広がっていた。
さっそく幕府は事態の収拾に動いた。その過程で、元勘定組頭の土山(つちやま)宗次郎(そうじろう)が米の買い上げに関わる不正で捕らえられ死罪に処せられた。土山は田沼意次(おきつぐ)派の一員といわれ、平蔵の元上役でもあった。
そんなある日、又兵衛は平蔵が目付(めつけ)に拘束されたという知らせを菊江から受けた。土山との関係から取り調べを受けているのだという。
さっそく又兵衛は清十郎の許へと急いだ。平蔵たち御家人の管轄は目付にあるので清十郎たち町方が直接関与することはなかった。だが清十郎には目付筋に知り合いがいて、その伝手(つて)で拘留中の平蔵に直接会い話を聞けたというのだ。
「平蔵に過失があったとは思えぬ。むしろ貧しい民のために米の廉売(れんばい)を提案していたそうで、本人はまったく心当たりがないと言っている」
平蔵は二年前まで勘定方にいて土山の差配を受けていたが、白河侯による田沼派一掃のあおりを受けお役御免になっていた。さらに今回の打ちこわしを機に白河侯派による粛正が一段と強まり、特に下級役人へのそれが峻烈(しゅんれつ)を極めていた。土山宗次郎はそのいい見せしめになったのだ。
三日が経った。平蔵はまだ家に戻っていなかった。又兵衛は、平蔵の妻女が心の安定を失い感情の浮き沈みが激しくなっている、と菊江から相談を受けていた。
その日の午後、又兵衛は道場で清十郎と顔を合わせた。
「終わったら、後で話がある」
と顔を見るなり清十郎の方から声をかけてきた。又兵衛自身も話を聞きたいと思っていたところだった。
「平蔵の妻女の気持ちが不安定になっているらしい。自分の妻のこともあるので、気にはなっている。そこでだ。又兵衛に一つ頼みたいことがある」
そう言って清十郎は話を切り出した。平蔵が捕らえられて間もなくして、それを心配した手習の子どもたちがそろって親たちに連れられ平蔵の家にやって来たという。その後その話を聞いた清十郎が妻女や菊江らと相談し、目付方へ平蔵救出のための嘆願書を出してはどうかということになったらしい。
「その取りまとめを又兵衛にやってもらいたいのだ。親たちの顔は菊江殿が承知している」
又兵衛への頼み事だった。親たちの中で読み書きのできる者はほとんどいないという。さらに、清十郎は町方の役人であるため立場上あまり表立っては動けなかった。又兵衛は二つ返事で引き受けた。今の自分が無役だからこそできることだと考えたのだ。また、菊江と一緒にやれることも又兵衛の気持ちを前へつき動かしていた。