その時、その場の緊張を孕んだ静寂を破って突如指揮官は叫んだ。
「見たか。馬も死力を尽くし命冥加にありつく。己が馬を信じ、それを御せっ。九郎義経は神賭けて誓うぞ、ここさえ落とせばこの戦は勝つ」
声が完全に裏返っている。見れば顔面蒼白で目は吊りあがっている。いわば神憑りか狐憑きか、何物かが乗り移った別人を見るようであった。その発作的興奮状態を見て、宥める言葉も出ず唖然とするばかりの麾下を尻目に九郎は、
「ここがこの戦いちの修羅場ぞ。そこ抜けてこそ真の男。いざ、名を惜しむ者は我に続け」
と叫ぶや否や、手綱を一杯に絞られて前脚を宙に浮かせて足掻く馬を押さえていたのを、一気に緩めて脇腹を力いっぱい蹴ると、馬と共にあっという間に視界から崖下へと消えた。止める間も無かった。
その刹那、若き大将の心魂は焔となって周りに燃え広がり、分別や道理は炭のようになって滅してしまった、
——などというのは大将の心算に過ぎず、残された者にとっては選択肢は一つしか無いという、理不尽の極みに将士を追い落としたに過ぎない。
この土壇場を叩きつけた大将がいくら限外であろうが狐憑きであろうが、軍令である。又、おのれ一人が煙のように崖下へ消えてしまった。
この場合どうでも大将一人を死なせる訳にはいかない。やむなく死を覚悟して手短に念仏を唱えてから、或いは若輩にあっては、怖れと緊張で失禁する者、命を儚んで涙ぐむ者、又はこれぞ神託とばかりに気負い込む猛者。
武家は逃げて死罪になるほどなら、崖から落ちて戦死する方を選ぶ。それぞれの狂乱状態の中で次々と七十騎が後へ続き、砂塵と共に平家の陣地に舞い落ちた。
そして、命冥加な者が辛うじて崖下に下り得た時、その身内には九郎の点けようとした火がついに火柱を噴いて燃え上がったのである。
大将は、実に我が弱小の軍にこの死に物狂いという銘の火を点けようと欲したのだった。それにはまず、否応なく己が死を賭さねばなるまい。
そしてこの一種狂気のような背面突撃によって、度を失った平家は大敗し、海上へと敗走したのである。
白砂青松の浜辺、打ち寄せる波の音は耳に永遠の時を刻み、頰を撫でる潮風は現(うつ)し世の乱れ髪を兜の吹返しに遊ばせる。
先刻までの阿鼻叫喚の巷が噓のように静まり返った須磨の浜辺では、味方の遺体の収容や、敵の遺体の身元や数調べの、黒鍬(くろくわ)と呼ばれる戦場人足がそこここに居る他は、動く者とて無かった。ただ波打ち際で、死体となった兵士が、打ち返す潮に洗われ躰をもてあそばれている他には。
【イチオシ記事】40代半ば、自分が女であることを忘れて10年以上。デートや恋がしたくて、ネットで出会い系や交際クラブを探してみることにした
【注目記事】マッチングアプリで出会った男に騙され監禁。そこには複数の女性がいて、上の階からは「お願い、殺さないで」と懇願する声が…