【前回の記事を読む】「髪に差したい」――花一輪に恋心を託した若武者。義経が味わった束の間の幸福は、なぜ断たれた?
第一章
元暦元年(一一八四年)
旧暦二月六日 夕刻 二十六歳
摂津国 鵯越
短くはない歳月が過ぎた。九郎の歳も長けて今や平泉を出奔し、後白河法皇の宣旨(せんじ)、鎌倉政権の兄頼朝の下知(げち)のもとで平家追討軍の武将の一人に任じられている。
前日の三草山戦では、遠く山向こうの平家陣地まで夜襲を掛ける為に、九郎の指揮のもとで峠道沿いの民家に次々と火をつけて焼き上げ、進軍の為の明かり取りとした。当時の戦にあっては、戦略の為の火つけは是非に及ばぬ慣例とはいえ、幾つもの部落が人死にを出し、灰となった。
そうして三草山で勝利し、平家の資盛(すけもり)、有盛(ありもり)らを敗走させた九郎は、その追撃を土肥実平(どいのさねひら)に任せて山道を進撃した。
鵯越道を藍那まで来た時初めて軍を小休止させ、麾下(きか)の部将、安田義定(やすだのよしさだ)、多田行綱(ただのゆきつな)を召し寄せ、軍議を開いた。ここで道は右と左に別れる、その岐路の上である。
「今我らがかくの如く山路を迂回しておる訳は、お察しあるかと思うが」
椎の木の下に座し、そう切り出す九郎に安田が即座に、
「お言葉なれど、慮外にて候。何故当初の戦立ち通り、全軍で塩屋口へ下らせなんだ。塩屋口、生田口両方面から攻めよとの蒲殿(かばどの)注1の下知でござる。
塩屋口に土肥殿はござれども、御大将の殿が統べられねば蒲殿に申し開きが立たぬ事にて。明ければ七日の矢合わせ、今や急ぎ塩屋口へ向かわねば間に合い申さぬ。かような山中で道に迷ったように停頓し、御大将の御意向が分かり申さぬ」
多田行綱が、静かに瞑っていた目を開いて、云った。
「夢ノ口でござるか」
九郎は少し笑みを含んでそちらを向いた。
「遠からず。多田殿、安田殿には三千騎で山の手から攻めていただく。しかし、ここまで回ってきて並みの攻め手では、奏功しない。このまま街道を下って夢ノ口砦門に向かえば、敵の物見に遠くから知られ、まともに迎え撃たれる。敵の兵力に対して味方三千騎では危うい。
敵の意表を突く、奇襲をする。夢ノ口のすぐ南東には福原がある。巧くやれば、敵は慌てふためき、本拠地福原に泡を食わす事が出来ようぞ。生田口、塩屋口、夢ノ口裏の三方攻めじゃ。多田殿、汝は当地摂津の武者、街道を通らずに敵の裏をかく攻め手は無いか。山手から抜ける道は無いか」
「お待ちくだされ、総大将の下知に逆らい申されるか」
割って入って、安田が激して云った。九郎は低い声で云った。