【前回の記事を読む】断崖絶壁から馬で駆け下りる――平家に勝つため義経が選んだ“非常識で無謀な策”とは【鵯越の逆落とし】
第一章
元暦元年(一一八四年)
旧暦二月七日辰一刻 二十六歳
一ノ谷
目の前の風景が突然開け、木立の中から海が現れた。眼下の海は青く、細かな白波の立つのまで見える近さにあった。
その大海原の向こうは、白い雲の浮かぶ広大な青空。ウミネコの声と海風の吹き寄せるその崖の上で、はたと馬の足を止めた武者たちを捉えたのはしかしその風景の美しさではなかった。
九郎率いる七十騎の武者達の目には、すぐ崖下に布陣する平家の一ノ谷の陣営があった。沖には夥しい平家船が、盛り上がるような赤旗と共に海を埋めている。
陣営は、見渡すところ遥か東の彼方まで海沿いに続いている。黒山のようにも見える、幾万の兵力である。その威容に、七十騎の武者達は唾を飲み込んだ。
潮騒のように湧き上がってくる陣内の人声、武具の触れ合う音、馬のいななき。今現在西の塩屋口で繰り広げられている、熊谷・土肥軍との予想外の激戦に気を取られて、陣内はやや浮足立っている。
それをじっと見つめる九郎の目を、その馬の口を取った鷲尾三郎(わしおのさぶろう)が見上げる。大将の指揮のもと、この地の猟人の子、鷲尾の案内でこの場まで山道を忍ぶように進軍してきたが、僅か七十騎でこの桁違いの兵力にどう対峙するのか、しないのか、無論誰も予測する事は出来なかった。
眼下の急峻な崖を食いつくように見詰めていた大将九郎義経は、突然断じた。
「ここより落とそうぞ」
麾下に驚愕と不審の波が広がった。
脇に控えた畠山重忠(はたけやまのしげただ)が、取り敢えず落ち着きを装い、
「お言葉にはござりますが、馬を損ねるかと存じます。万が一、主は無傷にて落ちても、馬無くしては戦う事は出来ませぬ」
「左様か。三郎、どう思うか」
主に突然下問された猟人の子、鷲尾三郎は落ち着いたまま崖を目で測り、考えつつ答えた。
「鹿はここを下りますが、馬は分かりません。恐らく我からは下りんやろうと思いますが、主次第と違いますか」
三郎の、猟人らしい真正直な答えを聞いて、九郎は片頰を僅かに緩ませた。気に入ったのか、笑ったようだった。しかしそれは、既に尋常な顔つきのようではなかった。
「鹿が下りるならば、馬が下りれぬはずは無い。替えの馬を二頭、先へ落としてみようぞ。もし下りたらば、あとは人馬一体じゃ」
九郎の命に従って崖に追い落とされた二頭の馬は、嘶(いなな)きながら砂塵を上げて落ちていった。砂煙を透かして見ると、崖下で、一頭は脚を挫いて立ち上がれず、一頭は立ち直って跳ね歩いていた。