【前回の記事を読む】「よもや殿はあのことをお忘れですか?」したり顔で意味深なことを言う藤吉郎。「構わん、忌憚なく申せ。だが…」

草履取り士官の訳

「そうであったか。知らなかった。いや、聞いていたかもしれぬが忘れていたわ」

「そこで、針や草履を売りながら生計を立て、今川領内の遠江守頭陀寺城主(とうとうみのかみずだじじょうしゅ)、松下家に士官したのです」

「そうか、今川領内か」

「駿河から尾張と美濃の知人の間を往来していました。それで小折の生駒家に下働きの職を得ました」

そこまで聞いた信長は、「あっ、あの事か。すまぬ、忘れておった」とでも言いたげに見えた。

「そうです。生駒屋敷で働いておりました。そこで働く蜂須賀という男に出逢い、気が合いもうした」と藤吉郎は言った。

「そうであったな。生駒屋敷だったな。儂と吉乃との間を取り持ったのも帥(そち)だった。すっかり都合の悪いことは忘れていたわ。すまぬ」

信長は面目なさそうに笑った。

「左様です。殿が一目惚れされたことをお姫様と八右衛門様に伝え、仲介申し上げたのは儂です。

よもや、お忘れだったとは、悲しゅうございます。つい最近のような面持ちです」

「そうであったわ。悪いのう。帥の父親のことといい、二重に儂が悪いな。戦が帥の父を殺めたか? 済まぬことをした」

「何を仰せでございましょう? 殿には一切関係がない戦でした。あれは織田家の別の戦でございます。殿には関係ない話かと」

言いかける藤吉郎の言葉を遮(さえ)ぎるように信長は話を続けた。

「戦をするは、武士である我らの責務である。兵に駆り立て田畑を荒らし、命を危うくするも武士の我らじゃ。儂にも責任の一端はある」

「もったいないお言葉で恐縮にございます」

「いや、儂こそ、すまぬ。それに吉乃とのことだが、本当に良く仲を取り持ってくれた。さもなければ、北畠や美濃への戦略も大きく変わっていたわ」

「ところで、猿とは、年が3つしか離れておらなかったな。皺しわな顔をしておるゆえ、最初は、お主の方が年上かと思ったぞ」と信長は笑った。

顔を上げた藤吉郎は涙で滲んだ笑顔で言った。

「殿、それはあんまりでございましょう。吉乃様に言いつけますぞ。小折城の生駒屋敷に戻って殿は吉乃様とのなれそめをすっかり忘れていましたと吹聴しますぞ」と述べた。