美濃攻略の想い出

◆永禄10年〜元亀4年(1567年〜1573年)頃

「次の城の築城準備は、どんな具合だ?」信長は藤吉郎の行方の確認と合わせて筆頭の丹羽長秀に尋ねた。

「藤吉郎が調略と平行して、瓦、石垣、土塀、築城材料を近隣の商人から大量に買い付けをいたしています」

「商人は誰じゃ?」

「大坂で手広く商いする茶屋四郎次郎とか申す者です」

「なに? 奴が力を貸していると申すか? それは心強いことよ。

穴太衆も参集したか? ますます良いな。小牧築城の折、平山を早期に築城できたのは彼らのおかげだ。

稲葉山城陥落後は我が居城とする。そこから天下を取る。よいな」

その数日後、小牧城では評定が行われていた。小牧城下の館に住んで居る主だった諸侯らは、城の大広間に参集した。

集まった諸侯には、尾張から林、柴田、佐久間、木下、蜂須屋らが居た。

三河からは水野、美濃からは森、坂井、稲葉、安藤、伊勢からは滝川、神戸達が参集していた。

「皆のものども、大儀である。いよいよ美濃攻めの具体的な方策を算段する時期が来た」

信長が口火を切ると、藤吉郎が言い放った。

「我ら結束し、美濃斎藤竜興を滅ぼしましょう。美濃に精通する美濃三人衆も味方になりもうした」

すると、明智が静かに述べた。

「信長様、斎藤竜興は、我が一族、明智光継の娘、道三の正室、小見の方。

竜興は、父である道三を殺し小見の方を加勢した我が一族、明智城を攻め滅ぼした憎き敵。拙者が先陣を切って攻め申す」と光秀が秀吉を意識して信長に猛然と主張した。

実際、斎藤竜興は、父、斎藤道三を打ち破った勢いで、道三方の味方についた明智光継と親族、城を攻め落としていた。

そのとき、明智光秀は命からがら身重の妻を背負い越前に逃亡した。その後朝倉に士官した後、信長及び朝廷に士官をして現在に至っていたのだった。