【前回の記事を読む】本当は前立腺がんの転移だったのに……激痛に耐える父に「命に関わる投与はできない」と告げた医師

第2章 序文にかえて
―この本を書く動機と正当性

わたし自身、いくつかの病気、それも命にかかわるような重い病気を経験しており、病気や人生における絶望、閉塞感、孤独を体験しつつ生きてきた(今でもそうであるが)。

自分の体で、痛みの耐え難さ、伝え難さ、暴力性を感じ取っていた。石に起因する腎疝痛(じんせんつう)は比較的無害であるが、これを繰り返した結果、2度にわたる入院治療を受けたこともあった。

母はこれだけでも、出産の痛みに匹敵すると言っていた。ある時、午後の11時になって、左脇腹に津波のような激痛が走り、病棟のカウンターまで足を引きずるようにして辿り着いたことがあった。

その時、2人の看護師が、冗談交じりに当直の申し送りをしていた。わたしは邪魔をしたくなかったし、なぜかむしろ恥ずかしいと思っていた。

疝痛が再発した場合は、通常の鎮痙剤ではほとんど効果がないので、病棟の回診で上級医が処方してくれたアヘン剤の一種であるディピドロールの点滴をお願いした。「すぐに準備をします。15分でできますから、お部屋に帰って待っていてください」と、看護師の 1人が、フルートのような高い声で言った。

わたしは自分の必死さが理解できない看護師に啞然として、何も言い返せないまま、病室の廊下の手摺を伝って部屋に戻った。このまま無に帰してしまいたい、死んでしまいたい、と願うくらいの痛さであった。

四半刻が過ぎて行った。15分の経過時間は、まるで永遠のようであった。わたしの頭のなかは真っ白であった。ついに、あの2人の天使がやってきた。アヘン剤が、わたしの体のなかに流れ込んでいった。

その後、わたしは、極楽のような眠りについた。

慢性的な痛みも他人事ではなかった。何年も前から、原因不明の右下腿の痛みに悩まされており、その痛みは、まるで空気のように常に存在していた。

内科、神経科、放射線科の所見は、ファイルを埋め尽くすほど膨らんでいた。さまざまな専門医に診てもらったが、理学療法、薬物療法、精神療法の試みは、すべて効果がなかった。

奇妙に聞こえるかもしれないが、わたしの痛みは、精神的な訓練によって、闘っても倒れなかった敵から、文字通りの意味で親友、つまり傷ついた友人となっていった。医学的可能性の限界は、わたしに復元力を身につけさせて、健全な宿命論と結びついていったのである。

2003年には心筋梗塞に襲われた。それまでは多くの同僚たちが考えているように、わたしは医師であって不死身なのだという潜在的な想いがあったが、突然、その想いから突き放されたのである。