「だけど、騒がないことに決めた。問題は、子ども達。あの事故で死んだM子さんと赤ちゃんがあなたと深い関係があることは、子ども達は知らないので、そっとしておいた方が良いと考えたの」
妻は、両手を組み合わせて、私を見た。
「あなたは認知症になった。私も、認知症になろうと思った。
認知症の良いところは、つらいことが忘れられること。あなたは認知症になって、良かった。私も、忘れようと努力した。腹の中は、なかなかそうはいかないけれど、形の上では、忘れました。何もなかったことにしました。だから、あなたには、一言も文句は言いませんでした。本当は、言いたかったけれどね。
あなたは、私が知らないと思っていたのでしょう」
「そのとおりだ」
俺は、深く頭を下げた。
「でも、M子さんと赤ちゃんは、かわいそう。決して、忘れてはいけないわ」
俺は、うなずきながら、就寝中に聞く、女性の声を思い浮かべた。あれは、M子であったのだ。
「死んだ人は、生きている人に思い出してもらうことで、よみがえるのよ。あなたも、よく思い出してあげて。認知症に収まっていてはいけないわ」
あの声と同じであった。
「私、M子さんの実家を探し出して、仏壇にお参りし、お墓も教えてもらって、時々お参りしているの。何もなかったことにしたのだけれど、あなたの妻として、あえてそうせずにはいられなかった」
「そうだったのか。本当にありがとう」
妻に、心から感謝した。すっくと立ち上がり、深々と最敬礼をした。
「M子さんの魂とも、お話しした。女同士で、あなたの悪口を言い合ったわ」
「まさか」
妻が、霊感が強いということは、前に聞いていた。しかし、現実にそんなことがあろうとは……。
「本当よ」
妻の口調はきっぱりとしていて、更なる否定は受け入れられそうもなかった。
「生まれ変わったら、従兄妹同士でなければ、結婚しましょう。M子さんは、あなたとそう言い合ったそうね。覚えている?」
「そんなことまで、聞いたのか」
驚いた。覚えていないが、そんなことを言ったかもしれない。
「生まれ変わった時の、あなたとの結婚の権利は、彼女に譲ることにしたわ。だって、あなたとのお付き合いは、彼女の方がずっと早く、長いのだから」
ショックだったのは、「あなたとの結婚の権利は、彼女に譲ることにした」との言葉だった。俺は、妻に見捨てられたのだろうか。
次回更新は3月13日(金)、21時の予定です。
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