仕事は新宿駅西口であった。当分完成しそうもない規模の大きな建築現場であった。私の仕事は大工の手元であった。技術がないので材料の運搬移動、片付けなどである。それも足場の中の移動は中腰でしかできない。
私は体力には自信があったから三十キロから五十キロの材料を中腰で常に運んでいたし、周りの大人にバカにされないように進んで重い物を運んでいた。
私はやっと自分で自分の面倒をみられるようになった。子供の頃に新聞配達などはやったことはあるが、大工の手元で得る給金は、それとは比較にならない金額であった。私は遠慮なく画材や美術の本を買うことができた。
弟も私の影響でデッサンを始めたのがきっかけで、漫画から絵画へと移行した。弟は中学二年の時には御隠居と呼ばれていた。気性の激しい弟は一年の時に各小学校の番長たちを打ちのめしてすでに番長ではあったが、私の影響で番長の座を他の子に譲っていた。それで皆に御隠居と呼ばれていた。頭髪もポマードでオールバックにしていた。
弟の画才は某先生をして「お前は天才だ」と驚嘆させていた。弟はレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロが好きで、すでにそれに近いデッサンや描写力を自分のものにしていた。
弟が十七歳で、銀座のある知られた画廊と専属契約したのも当然であった。後日、問題が生じ決別したのだが。
建築現場の仕事を始めて三ヶ月後に、私はついに腰を痛めた。数日経っても痛みは治まらず、病院に行った。ぎっくり腰である。腰に注射をして七日ほどすると治まったので仕事を始めたが、またもや腰を痛めた。
私は注射がなぜか嫌いであった。自分の身体に異物を入れられるのが極度に嫌いであった。
私が小学六年の時に盲腸にかかった。痛くて学校を休んだが、三日ほどで楽になり学校に行ったらまた痛みだした。どうしようもなく痛いので、父に言って病院に行くことにしたのだが、お腹を押さえて歩いていると「何だ、たかが腹痛ぐらいで」と父は言った。その日に即入院して夕方に手術をした。盲腸は破裂寸前であった。
翌日の早朝、トイレには壁を伝っていった。私は他人の手を借りて尿瓶(しびん)を使うのは恥ずかしくて嫌であった。退院してから盲腸の傷跡が化膿した。その部分に穴が開いたが、麻酔の時に腰に打った注射をまたされるくらいなら死んだほうがいいと思った。
一ヶ月くらいで治ったが、おかげで筋肉と腹の皮が仲良くくっついてしまった。私のお腹にもう一つおへそが増えた。それほど注射が嫌いだった。幼い頃もよく注射の時には暴れた記憶がある。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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