【前回の記事を読む】私は水泳パンツをはいて泳いだことはない。それで先生のパンツを借りたが、飛び込んだ瞬間パンツが水の抵抗で膝まで下がり…

二、

一年の時の担任は、社会科担当の女性の先生であった。二年の時は理科の男性教諭が担任である。中学になっても相撲の強さは役にたった。各小学校の番長が私に相撲で挑戦してきた。私は彼らに簡単に勝った。

普通の生徒を演じていた私には特に目だった事件はなかった。ごく一般の中学生が経験する軽いイタズラを皆に適当に合わせて過ごす大多数の一人の生徒であった。

父の名字は梅崎なのに、私達兄弟はまだ津留崎であった。父は手続きが手間取るのでそのままにしておいたらしい。

しかし、それでたいして支障はなかったし、私達はあまり気にしてはいなかった。父は子供の時には大きく感じたが、私はすでに父と同じ背丈になっていた。卒業する時は百六十八センチ、六十八キロになっていた。

私が中学三年の時に東京オリンピックが開催された。私達は歩いても行ける千駄ヶ谷の近くの道路に手製の日の丸を持ちマラソンの応援に行った。アベベが優勝し、円谷幸吉(つぶらやこうきち)が三位になった。自分と同じ名前であったのでよく覚えている。

私は早く義務教育である中学を卒業したかった。私は三年の一学期の春の授業時に、社会に出るためには、一応人間として社会生活するための看板、隠れ蓑が必要だと思い、そのための仕事は何がよいかと考えた。自由で上下関係もなく、出来るだけ他人に触れず、独力ででき得ることを条件にした。

消去法で最後に残ったのは、格闘技か芸術の世界であった。どちらも私の希望の条件を満たしている。しかし格闘技は白黒がはっきりしていて魅力的であったが、肉体はどんなに鍛えても限界がある。

残るは芸術の世界であるが、独学で学校に行かずにできるとなれば限られる。音楽は駄目、文学は言葉を信用していないからと、結局最後に残ったのは画家である。

これなら、紙と鉛筆一本でもできるし、家が狭くとも可能で自分の好きな世界を創られる。そして他人も干渉できない。