私は画家になる、と決めた。この時十四歳であった。私は特に絵が好きだったわけではない。普通の生徒と同じく写生会の時などは五分くらいで描いて後は遊んでいた。だが、自分の一生の仕事にするとなれば話は変わる。私は自らに鉄の掟を課した。

まず、毎日デッサンはもとより、時間がある限り常に絵を描くこと、好き嫌いで絵を見ないこと。十代は基礎作りのため、写実的な表現を徹底的にすること。絵に関すること以外は無駄な神経は一切使わないこと。それと女性に対しては修業の間は徹底的に無視すること。頑丈な肉体を作っておくこと。自分を甘えさせないために、手に他の技術を持たぬこと。半端な友達を作らぬこと。常に自分を追い詰めること。いわゆる、背水の陣を日常化すること。後はただこれらのことを野垂れ死に覚悟で実践すること。

私は、その日からすぐに実践に移った。授業中も私は自分の手を線だけで描くことを始めた。まず卒業するまでに最低千枚は描くことが目標であった。

この枚数はクロッキーも含めると三ヶ月程で軽く突破した。私は毎日昼休みになると職員室に行き、美術の先生に見せた。彼は一水会という日展系の洋画団体の会員であった。私が毎日のように習作を持ってくるので先生は苦笑しながらもよく見てくれた。

美術の本も買ったが、あまり高い本は買えなかった。美術の本は高価であった。美術館にもよく行った。西洋美術館、当時は京橋にあった近代美術館、他は東西の有名な画家の美術展など、時間と金がある限り見に行った。あとは自然界が最も優れた先生であった。

私の弟は漫画が好きで、この時期は漫画を描いていた。兄は印刷会社に就職して夜間の蔵前工業高校に行っていた。

頑固な兄は中学で副会長をしていて成績もよかったので普通の高校を薦められていたのだが、自分の道は自分で切り開くと譲らなかった。会社の寮に住み込み、そこから会社までの五キロ前後の距離を自分を鍛えるために走っていたという。

私と兄は一学年の違い、弟とは二歳半離れていたが遅生まれのために三学年の開きがあった。

 

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