【前回の記事を読む】家族で上京――学校では九州弁丸出しでよく笑われたが相撲は強かった。初めて自分と互角で相撲ができる相手と出会い…

二、

私が生まれた村に比べれば東京は気楽であった。飯場では四畳半の一部屋に親子四人で生活したが、それも私には快適であった。

少しやかましさはあったが、私達に干渉さえしなければ何も問題にするほどのことはなかった。弟も学年をしきっている番長と子分のような連中との喧嘩で自分を認めさせることにいそしんでいた。

弟は相手が何人いようが関係ないことは私が一番知っている。相手が弟を殺さない限り、弟は喧嘩に勝つのである。弟は明治神宮での図工の写生会で三十人相手の大立ち回りを演じた。

私は、五歳の時に犬かきの泳ぎができた。だが、その前に三回溺れている。

一度目は洪水の時だ。父が私を木製の丸たらいに乗せて泳いでいた時に、私がそのたらいを揺さぶった。それでひっくり返って濁った水の中に沈んだ。

二度目は川で泳げない私を年上の少年が背中におぶったまま潜水したのである。私は水中で手を離して、水中の暗い緑色の岩を見たのを覚えているが、どのようにして助けられたかの記憶はない。

三度目は川の泥採集で掘られた穴の中に落ち込み沈んだ。これも誰が助けてくれたのか覚えていない。恐らく私の頭を踏んだか、私のもがいている手が誰かに触ったのだろう。

東京に来て最初の夏である。小学校のプールは幅十メートル、長さ二十五メートルであった。田舎では競泳のときは川に二本ロープを張ってその距離で泳いだ。私は水泳パンツを穿いて泳いだことはない。

だが、東京の学校では皆穿いている。私は泳ぎは得意であったがパンツがない。それで先生のパンツを借りてクラス対抗の競技に急遽参加することになった。

私は水に入る前は丁度いい大きさだと思っていたが、飛び込んだ瞬間に穿いていたパンツが水の抵抗で膝まで下がった。水中で元に戻して泳ごうとしたが、すぐにずれる。

片手で自分のパンツを押さえながら泳ぐ形になった。その結果、私の泳ぎを期待した皆をがっかりさせた。私は自分が陥った状況を恥ずかしくて説明できなかった。