【前回の記事を読む】「私は画家になる」自由への渇望—自分の好きな世界を創るために課した鉄の掟

二、

当時、私は印象派のモネに一番親近感を感じた。明治神宮の中に内宮があり、モネが描いたのと同じ睡蓮があった。料金は取られたが学校が休みの日によくその睡蓮を描きに行った。生物や自画像などの他、夜は父の寝顔や手足をよく描いた。学校では自分の手以外に先生の戯画を描いた。モネが十五歳で描いた戯画にヒントを得たのである。

ノートは何冊も数日で描きつくされた。デッサンを入れたら一日に五枚前後は描いている。クロッキー帳やスケッチブックを含めたら卒業までにゆうに四千枚を超えている。紙代も絵の具代もばかにならない金額になるため、私は白い紙なら何でも使ったし画用紙の両面にも描いた。

画家の伝記はよく読んだ。歴史に残っている画家の成長と生き方を参考にするためであった。ピカソは小学校しか行ってはいない。父親が美術学校の先生であったから、彼は美術学校に行っただけである。絵画を学ぶのに普通の授業は退屈なだけであった。私は早く中学を卒業したかった。

私は中学校で決められた会社に就職することが決まっていた。美術の先生は、これからの絵描きは高校ぐらい出ていたほうがいいと言ったが、私には全く興味がなかった。中学を卒業して、父に自分は画家になりたいから会社にはあまり行きたくないと言ったら「お前の好きにすればいい」と言った。

私はこの時にやっと自分の好きなことができると、何ともいえぬ解放感を味わった。

内定していた会社から電報が二度来た。「シュッシャサレタシ」と書かれていた。私は学校には迷惑をかけたが無視した。

私は十五歳になっていた。まだ印象派の影響下にあった私は、自然界の四季の豊かな表情に酔っていた。私の描く風景の中には人間の姿はなかった。私は風景の中に人間を描くことに抵抗があった。人間が入ると自然が汚れると思っていたのである。

中学を卒業してから初めて油絵の具のセットを父に買ってもらった。

私は二ヶ月ほど経って、父と同じ仕事を始めた。油絵の具や画材代、美術の本代は金がかかる。私の描く枚数は多かったし、画材などの金は自分で稼いだほうが気楽でもあった。

同じ飯場に一歳年上の友達がいた。彼に勧められてすでに煙草を覚えていた。父は私が煙草を吸っているのを知ってもどうせ隠れて吸うだろうからと、怒らなかった。