「大丈夫、何とかなるさ。君も今回の研究開発には根を詰めすぎた。ほとんど休みも取っていないだろう。君には、今までの研究実績と信用がある。なにも研究開発ばかりが人生でもなかろう。少しゆっくりと身体も心も休め、英気を養ったほうが良い。そうして捲土重来(けんどちょうらい)を期そうじゃないか」
奥貫はレバガードの優秀性をきちんと理解してくれている。ここは中央研究所長である彼に、すべてを託すしかないのだと哲也は判断した。
「たまには四国に帰っているのか。葛岡先生もお年だろう」
「お心遣い感謝します」
「いい人はいないのか。、そろそろ結婚して、孫の顔でも見せてやらんとな」
何も言い返せなかった。
「ありがとうございます。ゆっくり考えてみます」
辛うじて平静を保ち、哲也は所長室を後にした。
会社の決定がたまらなく悔しかった。握り拳を開くと、掌てのひらにくっきりと爪の跡が残っている。
中央研究所のリノリウムの廊下に反射する穏やかな春の日差しが、哲也の網膜に染み入ってきた。
実家に帰っているのかと聞いた奥貫の言葉も堪(こた)えた。
哲也はこんな状況で田舎に帰れる道理などないと考えていた。
開業医だった祖父は、哲也が生まれる前に急逝し、高知県郡部の仁淀川近くの集落にある葛岡医院は廃業の危機に追い込まれた。
父、葛岡智志(くずおかさとし)は東京大学医学部出身で、このとき東大で臨床・研究・教育に取り組んでいたが、それらをすべてきっぱりと捨て、田舎に戻り葛岡医院を継いだ。
母陽子(ようこ)は、哲也の生後すぐに癌で亡くなって、父智志が哲也を育てた。
そんな父の後を医師になって継ごうともせずに、哲也は東京の私立大学の薬学部に進み、大学院で博士号を取得し、卒業後は製薬会社で新薬の研究開発に没頭してきた。
もう父に頼れる年でもない。自ら田舎を捨てて東京に出てきたのだから、帰ってのんびり仁淀川を眺めることなど許されるわけがないのだと、哲也は頑なに思い込んでいた。
もっとも父、智志はそんなことをまったく気にしている様子はなかった。たまに哲也が帰省するとただただ嬉しそうに哲也の話を聞いている。
哲也以上に寡黙な父との間には活発な会話というものは昔から存在しなかったが、たまに父と過ごす時間はそれなりに幸せで、なんともいえない温かな充実感を哲也に与えた。地方の日常診療に追われる父は、最先端の研究開発の話に、まるで学生であるかのように目を輝かせ、哲也に質問を浴びせた。
高知には帰りたくない、帰れないというのは、哲也の意識過剰な心理であり、それは父や故郷に対する照れや甘えの裏返しであるのかもしれない。
【イチオシ記事】彼は私をベッドに押し倒し、「いいんだよね?」と聞いた。頷くと、次のキスはもう少し深く求められ…
【注目記事】「若くて綺麗なうちに死んだら、あなたの永遠の女性になれるかしら?」「冗談じゃない」彼は抱き寄せてキスし、耳元に囁いた