一瞬、迷った。しかし、顔を数回、左右に振って迷いを払った。唇を真一文字にして歯を食いしばる。

水面を覗き込みながら、川の中をバシャバシャと歩いた。躍動的な水飛沫は、稚鷦鷯を容赦なく濡らした。

「何をしているの? 水はもう冷たいわ」

よく通る、聞き覚えのある声。稚鷦鷯は振り返った。

「山田(やまだ)。あっ、日爪(ひつめ)のじじも一緒か」

春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)が呆れたようにして立っていた。切れ長の涼しげな目をしている。大人びて見えるが、稚鷦鷯と同じ十歳。彼女も大王の子であり、稚鷦鷯の異母姉(いぼし)にあたる。

一緒にいるのは和邇日爪(わにのひつめ)。山田の母方の祖父だ。髪も髭も灰色に退色している。笑い皺が刻まれた顔には、人の良さがにじみ出ていた。

日爪は後ろの護衛に手で払うような仕草をした。〝さがれ〟という意味である。護衛の男は日爪に深々と一礼した。そして、命じられるがままに宮へ戻った。

和邇家は大きな権力を持つ、由緒ある豪族である。一族の長老である日爪には逆らえない。

稚鷦鷯は川からあがり、濡れた手を服で拭いながら日爪の前に立った。あどけない笑顔で礼をし、

「お久し振りです。日爪のじじ様。ご健勝のご様子でなによりです」

と、元気に話しかけた。

「おお、これは、これは。ご丁寧にありがとうございます。皇子様の方からご挨拶とは、申し訳ございません。大きくなられましたな。父王にも、ますます似てこられた」

その言葉で、一瞬、稚鷦鷯の顔が曇った。その変化はごくわずかで、もちろん山田にはわからない。しかし、日爪は自分の非に気付いた。話をそらそうとしたちょうどその時、

「あら。背の高さなら、私の方が勝っているわ」

と、山田が稚鷦鷯の隣に並び、むきになって背比べをした。稚鷦鷯の顔にも負けん気が出てきた。