2. なぜ干支二運をさかのぼらせたのか

百二十年をさかのぼらせたのは故意だった

そして、干支二運をさかのぼらせているとされる百済記関連の記事である。

百済王の記事から見ていこう。

『日本書紀』に百済王に関する具体的な記事が最初に出てくるのは「神功皇后紀」四十六年条である。記事の内容は省略するが、この時の王の名は肖古王である。

この肖古王が薨じたのは神功五十五年、翌五十六年には王子貴須が王になったとある。

また六十四年には貴須王が薨じ王子枕流王が王となり、さらに六十五年にはこの枕流王が薨じて辰斯が王になったと記されている。

「別表1、百済王の即位と薨去」を参照していただこう。

写真を拡大  別表1 百済王の即位と薨去

上段は、「神功皇后紀」に記されている、百済王の即位と薨去の年についてまとめたものである。

肖古王の薨去を例に説明すると、左から「神功皇后紀」では五十五年、西暦換算では二五五年となる。

そして、干支二運(百二十年)をさかのぼらせていることを計算に入れると、実際の薨去の年は西暦三七五年だということになる。

また下段は、『コンサイス世界年表』(三省堂 昭和51年11月1日)から抽出した百済王の即位と薨去の年である。肖古王の薨去は、三七五年となっており、「神功皇后紀」が百二十年をさかのぼらせていることが確認できる(仇首王の即位年が一年ずれているが、これは元資料が二種類あることが原因と思われる)。

一体「神功皇后紀」は、何のためにこのような操作をしたのであろうか。

それとも間違えて、あるいは正しいと考えて干支二運をさかのぼらせたのか。

いやそんなはずはないのである。「神功皇后紀」は、干支二運を故意にさかのぼらせたのだ。

何らかの意図を持って、この操作を行ったことは間違いない。

百済記の記事を詳細に辿って年表に書き加えていた彼らが、六十年単位で繰り返される干支を二運(百二十年)も間違えるはずがないのである。

 

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