【前回記事を読む】「じゃあ私が東さんの初めてを奪ったんだね。」この笑顔を見られる幸せがずっと続くと思っていた…。だが、別れの日は突然に…

Case: A 夫の選択

「おい涼介、今日はもう遅い。明日も学校だろう、早く帰れ」

「いい。明日は休む」

「馬鹿を言うな。学生の本分は勉強だ。そんなんでどうする。来年は受験生だろ」

「……じゃあ父さんはどうすんだよ」

「あまり大人を舐めるんじゃない。社会に出ればこういった不測の事態に陥ることなんかしょっちゅうだ。だから慣れてる。たまには親の言うことを聞け」

涼介はまだ何か言いたげだったが渋々頷いた。康介が内心で(本当に……誰に似たんだか)と呟いたことを知ることもなく。

取り残されて幾らか冷静になるとまたタバコが吸いたくなった。この病院に喫煙所はあっただろうか。昨今の分煙・禁煙化が進み、愛煙家はますます肩身が狭くなるばかりだ。昔は涼子も一日に数本は吸っていたが妊娠してからはやめていた。康介もそれ以来家族の前で吸う事はなくなったが、一人で吸うタバコは美味くてもどこか味気ない。

(俺はこれからどうすればいい)

涼子に後遺症や記憶障害は残らないだろうか。頭を強く打っているらしいが、麻痺や言語障害はどうだ。日常生活を普通に送れるだろうか。

そこでふと気が付いた。康介は涼子が帰ってくることを前提に考えていることに。本当は分かっている。涼子はおそらく助からない。

「どうせ八十年くらい生きるんだし、か。お前はまだ、半分も生きていないだろう」

康介はなんの気なしに己の手を眺めた。涼子の手をすっぽりと覆い隠せる、滑らかさの欠片もないゴツゴツとした手を。

この手でペンを持ち、机にかじりついてきた人生だった。震災で多くのものを失った康介にまず必要だったのは金だ。衣類、勉強道具、最低限の家財道具を買い直すのはもちろん、進学にだって馬鹿みたいに金が掛かる。日々の飯を食うにも、病気の治療を受けるにも何をするにも……。

全てとは言えないが、金さえあれば大概のものが手に入る。スウェーデンにはうつ病患者に五十ユーロ(約六、五〇〇円)を毎日支給し続けたら症状が緩和されたという論文さえあるほどだ。金があれば多くのことに悩まなくて済む。

そんな康介が今、最も欲しているものは金で買えない。皮肉の効いた事実を目の当たりにすると、自らをあざ笑うかのような笑みが自然とこぼれた。

(結局、この手では大したものは掴めなかった。母親が埋まっているはずの家の瓦礫ひとつすらろくに取り除けなかったちっぽけな手だ)

何か奇跡が、なんでもいい、とにかく妻を救ってくれる何かがあれば。神が望むのなら、自分の命だって差し出す所存だ。それで妻を取り戻せるのなら。

そんなゲームのような奇跡が起こるわけがない。だが神頼みをするほど今の康介は追い詰められている。タバコでも吸って頭を冷やしたほうがいいのかもしれない。

そうしている時に現れたのが己を死神だと名乗る男だった。