天智天皇が病床に伏す中、弟の大海人皇子は天智天皇の子である大友皇子を後継に推挙し、自らは奈良の吉野に出家した。天智天皇が崩御ののち大友皇子が跡を継いだが、そのとき大海人皇子は、近江の朝廷が自分の命を狙っているという情報を得た。
そのため大海人皇子は兵を挙げ、美濃から伊賀、熊野の豪族の信を得て、近江の朝廷に立ち向かった。その数2~3万人と云われている。と、ここまでは講談師の話のようだが。
乱のあと皇位についた大海人皇子が命じて作られた古事記の記述による話であるので、ほとんど真実に近いものだろう。672年に起こった内乱なのだが、その大兵力や範囲の広さを考えると、とても想像もつかない大内乱だったのだ。
乱は最終的に瀬田の唐橋を挟んだ戦になり、朝廷軍が敗れ、大津京は終わった。大津京はたった5年間だけしか存在しなかった。大海人皇子は天武天皇として即位し、都を飛鳥に移した。
一通りの参拝を終えて、石段を下りながら左の側道に出た。このあたりは滋賀里と呼ばれる地域である。いわゆる大津京があった辺りだと伝わっている。今は住宅地が広がり、大津京の痕跡は何もない。柿本人麻呂が、大津京の跡を通った際に詠んだとされる歌に
〝淡海の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ〟
とある。その時は大津京が無くなってからそれ程経っていない頃と思われるのだが、すでに大津京の痕跡も少なかった様に思える。
今は大津京の面影は全く残っていないのだが、唯一のよすがとして、山手に崇福寺の跡がある。崇福寺は天智天皇により668年に創建された寺院である。従って大津京とは深い繋がりがあると云われている。私は跡地を訪ねた事がある。
そこは山の中にある平地であって、当時の建築は柱の下に礎石を置かなかったため、規則的に置かれた石などは無い。だが1938~39年に実施された塔心礎(とうしんそ)の発掘調査により、舎利容器等何点もが発掘された。
現在は京都国立博物館に寄託され、国宝に指定されている。木々の生い茂った山中の平地ではあるが、何か歴史を感じさせる。崇福寺跡こそが、全て消え去った大津京のかすかな残り香の一片である。
〝琵琶湖周航の歌〟と云うのがある。旧制第三高校(今の京都大学)のボート部で作られた寮歌である。滋賀県では広く愛されていて、知らない人はいない。その一番は次のようである。
〝われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと
昇る狹霧(さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば〟
私は琵琶湖周航の歌の一番から一周の旅を始めたとも言える。これからどのような旅が待っているのか分からないが琵琶湖周航の歌は何処まで回ったかの目安にもなりそうだ。
この日の終りには穴太(あのう)近くの友達のT君の家に寄って、おいしいお茶をよばれてから帰途に就いた。
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