【前回の記事を読む】かつて魚が群れた湖で、今は静寂だけが残る――歩いて見えた琵琶湖の「今」と「昔」
歩き旅3 1月15日(日) 3日目
大津市役所―穴太
私は先ず湖岸に出ようと思って琵琶湖中に延びた岬の柳が崎に向かって歩いた。柳が崎にはヨットハーバーやバラ園があって観光客が多い。だが今は冬、季節ではなくただ寒くて人影も無い。そこからは真っ直ぐな道が近江神宮に延びている。
近江神宮は、今は使わない暦で「皇紀2600年」の1940年に建てられた官幣(かんぺい)大社である。祭神は天智天皇、その歌
〝秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ 我が衣手は露に濡れつつ〟
が百人一首の一番になっている事にちなんで毎年1月にかるた祭が開かれて、名人やクイーンが決定される。今年はもう終わったのかも知れぬ。
私は何年振りかで鳥居をくぐって近江神宮の石段を登った。下の石段を登った中段で、門松や古いお札を焼く焼納祭が行われていて、高い炎が空中に立ち昇っていた。
いわゆる田舎の左義長(さぎちょう)まつりのようなものである。そういえば今日は1月15日小正月だ。
上段に登って行くと、日本で初めて設置された水時計(漏刻)の復元模型があった。これはなんとスイスのオメガ社から寄贈されたものであった。ということは天智天皇が世界で初めて水時計を作ったのかな。
このあたりは大津京のあったとされる場所である。大津京について言えば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)について先ず語らねばならない。その人生は19歳の頃に蘇我入鹿を暗殺するなど、波乱のスタートだった。
大陸の唐や新羅に滅ぼされた百済の復興のために出兵し、九州で指揮を執っていたとされるが、663年の白村江の戦いに敗れた。667年に飛鳥から大津に遷都し、翌年皇位に就いた。天智天皇である。
万葉集にある、天智天皇が蒲生野で狩りをされた時に歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)が作ったとされる
〝茜さす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る〟
に対する、天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の返歌。
〝紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも〟
いにしえの、のどかな世界を彷彿とさせる。でもこの時代は壬申の乱があった波乱の時でもあった。