【前回の記事を読む】家族連れを見て、私を産んだ両親を思い出した。不幸な事故だったが、心の奥底に悲しい記憶として蓋をし、閉じ込めていた
第一部
三 異変
それから月を跨いで照史からの連絡がなく、私は様々な悲観的推測に苦しめられた。不安という二文字が脳裏に溢れ、すでに抱えきれない。闇雲に「連絡のこない理由」などインターネットで調べても、安心できるわけではない。
しかし照史に限って裏切ることはないと、何回も自分に言い聞かせた。しかも無意味な思考が理由付けを探し、弱い心をぐらぐらさせた。情けない私には電話をかけるという行動を取る勇気もなく、その日も心は真っ暗闇の中で家路に着いた。
ふいにトゥルルル トゥルルルという音が鳴る。それは照史からの電話の着信音だった。「照史くん心配したよ!」という私の第一声は悲鳴に近いものとなった。電話の向こうで、彼が必死に謝っている姿が浮かび、心も一瞬で、軽やかになった。今までの恐怖が、嘘のように雪解けて、私の笑顔が戻る。
照史が今から家に来てほしいと言い、私は心臓が崩壊しそうなくらい走り、地下鉄に飛び乗った。駅前広場で照史の微笑みが迎え手を振っている。私は胸の中で受け止められ、安堵の涙目になった。
照史は連絡の不備を謝罪し急な出張だったと言い訳した。会社のトラブルで台湾に行き、徹夜で作業した挙句、蜻蛉返りだった。と申し訳なさそうに萎えている。
私はもう一度、彼の胸に顔を埋めて、その温もりを胸いっぱいに感じた。照史は思いきり抱きしめてくれ、その時は既に怒りなど無かった。
狭い所だと言いながら、玄関を開けた。1DKの部屋はきちんと掃除され、息を呑むほど綺麗だ。何一つ余分なものがなく冷たささえおぼえミステリアスな一面を感じた。
ローベッドの頭上には十字架が掛けられ、フローリングの床に、無数の哲学の書籍が積み上げてあった。彼にはもっと温かみのある空間にいてほしいと、勝手に思ってしまった。
彼は空腹だろうと言い、おもむろに料理を始めた。料理人の様に手際よく、私はカウンターキッチンの向かい側から感心して、その姿を見つめた。エプロン姿に、懐かしさと愛おしさを感じて、父や伯父が料理していた頃を思い出した。
彼は自炊だから料理が上手だ。苦学生で、高校生の頃から沢山バイトしてきた。飲食店が一番楽しかったと懐かしんでいる。
玉ねぎのみじん切りを、慣れた手つきであっという間に仕上げた。彼が何を作るのかワクワクする。