物語の終盤、まさにこれから警察署に自首しに行くというときになってさえ、彼は、妹のドゥーニャに対して次のように怒りをぶつけるのだ。
「ぼくが、あのけがらわしい、有害なしらみを、だれにも必要のない金貸しの婆ァを、殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血を吸っていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい? ぼくはそんな罪のことは考えない、それを洗い浄(きよ)めようなんて思わない」(第六部七)
ラスコーリニコフを襲ったものは、善悪の観念に基づいた自責や後悔の念などではない。そのように予め想定し、防御を固められるものではなく、まったく予期していなかった「肉体的な感覚」であったのだ。
果たして、この「感覚」の正体は何者なのだろう?
小林秀雄は、『罪と罰』を論じた評論で、このラスコーリニコフの「感覚」に言及し、次のように書いている。
今、彼の裡(うち)に現れたものは、観念でも意識でもない、それは嘗て経験した事のない悩ましい触覚であった。恐らく、作者は、読者の思想の裡にも、同じ触覚が現れる事を期待しているのである。(1)
私が初めて『罪と罰』を読んだとき、その同じ触覚をどれだけ実感することができたのか、今となっては思い出すことができない。
覚えているのは、その感覚の正体が、すなわち、ラスコーリニコフに現れた「悩ましい触覚」が、いったいどのような心理的、生理的な由来で生じたものであるのかが、まったく理解できなかったということである。
しかし、間違いなく理解できたのは、その「感覚」こそが、『罪と罰』という作品の意味を解く重要な鍵であるということだった。
おそらく、ドストエフスキーは読者に謎をかけているのだ。この「感覚」の正体を捕えてみよと。私には、そのように思われた。そして、この謎が頭から離れなくなってしまったのだ。
(1)小林秀雄「「罪と罰」について Ⅱ」(一九四八年十一月)『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫 一九六四)所収
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