【前回の記事を読む】殺人犯を襲った“孤独”と“疎外感”。この感情はいったいどこから——ドストエフスキーが読者に求めた「共感」とは

第二章 様々な解釈

ニコライ・ベルジャーエフ

ベルジャーエフは、また、ラスコーリニコフの犯行について次のように述べる。

彼はその我意のゆえに、人間のなかの最下等の者をすら、《観念》の名において殺していいかどうかという問題を、自分勝手に決定する。だが、かかる問題の決定は、人間の手にあるのではなくて、それは神のものなのだ。神こそは唯一のより高い《観念》なのだ。

そして、こうした問題の決定にさいしてかかる《より高き意志》の前に頭をさげない人間は、隣人たちをほろぼし、自分自身をほろぼす。ここに、『罪と罰』の意味がある。(1)

ベルジャーエフは、犯行後のラスコーリニコフを襲ったあの恐ろしい感覚の正体として「内面から、内在的に展開する神的原理」を示唆しているように思われる。そのような原理が働くためには、それが「内在的に」存在することを前提としなければなるまい。

つまり、ベルジャーエフは、ラスコーリニコフやスタヴローギン(『悪霊』)やイワン・カラマーゾフ(『カラマーゾフの兄弟』)といった人物たちが内在的に神的原理を備えていた、と言っていることになる。

果たして、ラスコーリニコフは、神の存在を信じていただろうか? この難しい問題にはここでは深入りせずに、後に立ち戻ることとしたい。

ただし、スタヴローギンやイワン・カラマーゾフの悲劇の背景には、信仰の不在あるいは否定が色濃く影を落としている。イワン・カラマーゾフは、父フョードルから、「答えてくれ、神はいるのか、いないのか?」と問われて、「神はいません」と断言する(『カラマーゾフの兄弟』第一部第三編)。