【前回の記事を読む】不器用な海軍中尉と二十歳の研究部員、戦時下の研究室で出会った。そして運命が動き出した

第二章 めぐり逢い

祖父・鼎三の死

おふくろと親父が結婚してしばらく経ったころ、黄ばみ、すり切れた英文の降伏文書二通が、はるばるニュージーランドから日本に届けられた。

インド洋に浮かぶ「南海の島々」であるアンダマン・ニコバル諸島を終戦時まで守り抜いた、旧日本軍の地域司令官四人が、連合軍に降伏を承認して調印した文書である。日付は終戦の年の昭和二十(一九四五)年十月九日と二十四日となっていた。

サインした将校四人のうち三人までは、翌年戦犯としてシンガポールで刑場の露と消えた。この降伏文書は退役した英国軍人が保管していたが、「遺族に返してほしい」という希望で日本に戻され、絶筆に近いサインは、三十三年ぶりに遺族と対面したそうだ(昭和五十三年一月七日付毎日新聞夕刊より)。

このうちの一通が、アンダマン・ニコバル諸島全体の司令官である、原鼎三海軍中将のものであった。おふくろの父である。

鼎三は戦犯裁判にかけられ、イギリス管轄アンダマン・ニコバル諸島海軍司令部責任で、へブロック島住民虐待殺害致死として実刑判決を受けたのだ。

当時の位は中将で、昭和二十一(一九四六)年四月三日に絞首判決を受け、五月十六日に判決が確定。五月二十八日に刑が執行された。以下の遺書が残されている。