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男の名はミッシェル・アンドレという。アンドレはこのところ憂鬱続きで、幾分焦燥感にも駆られていた。しかし、この三月まではいつものように平穏だった。

はて、どこから狂ってしまったというのか?

チューリッヒ湖の左岸を形作る小高い丘の中腹に位置するドルダー・グランド・ホテル。そこで行われたある表彰式に、彼は主賓の一人として名を連ねていた。それは今世紀の初頭を飾る、世界最大の現代美術館となることが約束されている、国際建築設計コンペの表彰式だった。

アンドレは発注者であるルッシュ財団に請われ、この四年間、美術館設立準備作業のために全力を投入してきた。この美術館プロジェクトは、ある意味で美術に対する、いや、芸術全般に対する彼の考え方の総決算でもあった。アンドレは他に選ばれた何人かの専門委員と共に、展示コンセプトの策定を担当し、そのまま、この設計コンペの副審査委員長に選ばれていたのだった。

このような正式の建築設計コンペでは、過半の審査委員は建築家で占められるものなのだが、その他に、二人の美術評論家と学芸員、二人の大美術館の館長、著名文化人と実業家、そしてチューリッヒ市長の十五人で構成されていた。

今回、一等に当選した建築家ピーター・オーター氏の案は、結果的にアンドレも高く評価して支持したのは事実だった。だから、表彰式に臨席したときも、その後行われたパーティーで、展示計画を取り仕切った審査委員を代表して挨拶をしたときも、彼一流の優越感に浸ることができたのだった。

アンドレは今後二年にわたる設計期間の全般において、さらには開館後の企画や運営にさえも、自分が関わり合うことが約束されていることを確信してきた。

ところが最近、風聞だが奇妙な話がアンドレに伝わってきた。この設計コンペで、一等当選案の評価は極めて高かったのだが、実はこの案、設計条件の一つである展示計画と十分に整合性が図れていなかったのである。

換言すれば、展示コンセプトをかなり無視して提案されたものだった。最終審査時には、当然この点が問題になったが、誰の目にも提案そのものがあまりにも素晴らしかったために、この点は設計者が決定してから、充分に協議して、詰めていけば良いということになったのだった。

しかし、これが仇になった。どうも話の発端はこういうことらしい。最高責任者であるルッシュ・グループの会長自ら、この素晴らしい建築の提案に惚れ込み、逆に整合性の取れていない展示計画を、ここで見直してみたらどうかと言っているようなのだ。

そのため現在、若手の美術専門委員の名前までが数名リスト・アップされているようだ。

この自分を差し置いて、そのようなことを進めようとは何ともけしからん話ではないか。

今回の審査で、アンドレは彼一流の読みで、ここはひとまず建築審査員側の凄まじい評価に同調した方が得策と判断し、最終的に オーターの案に投票したというのが偽らざる真実だったのである。

だから、冗談ではないぞ。これでは、これまで努力してきた自分の功績が無に帰する。展示コンセプトの見直しなど、とんでもない話。が、もし仮にそうなったとしても、本来それは自分の仕事ではないか。

会長に真意を確かめてみるべきか? これが事実なら不愉快極まりない話だが、相手は最高実力者のルッシュ会長だ。まともにぶつかって良いことは何もない。

それに、今後新しく提案される展示計画の評価を、いったい誰がするというのだ?

それこそ自分が必要とされるはずではあるまいか。だからもし最悪のケースともなれば、それを主張するしかないかもしれん。プロジェクトへの影響力を最後まで行使し続けようとするなら、ここはひとまず様子を探った上で、会長に具申すべきことかもしれん。

これだけでも頭が痛いというのに、もう一つ大問題が起きた。こちらの方こそ、もっと長期にわたって、直接深刻な影響をもたらす話だ。