「マツエは今年の元日に死んだ。風邪をひいて一晩寝ただけでなあ。まさかあんなに早く行こうとは思わんかったぞ。」
仏壇の新しい白木の位牌が重正の目を射貫いた。
「おっかちゃんが死んだ。おれはおっかちゃんのために気持ちを奮い立たせて懸命に帰ってきたのに。」
出発する日、「重ちゃん必ず生きて帰ってきてよ。」彼の耳元で囁いた母の体の中に染み入るような寂しげな顔が思い出されたのと同時に、彼の体内から何かが音を立てて崩れると、頭の中が真っ白になり、彼は食事も喉を通らずただ天井の一点を見つめて何もする気が起こらなかった。そんな日が一週間ほど続いた。そしてとうとう実馬の堪忍袋の緒が切れた。
「重正いつまでグズグズしとる。男のくせに女々しいぞ。貴様がめそめそしたところで死んだ者が生き返るわけないだろう。来年は洪も大学受験というのに貴様に無駄飯を食わせるような余裕などうちにはないんだぞ。それに貴様は兵隊に行ってからというものロクに送金もしなかったではないか。早く炭鉱の坑内にでも勤めて嘉子と所帯を持って弟たちを助けようとはしないのか。お前が兵隊に行ったばっかりに宏は可愛そうに大学にもやれんかったのだ。そんな宏にぶら下がる訳にはいかんだろう。さっさと尻をあげんか。」
さすがの重正も実馬の顔を見る気がしなかった。あるのはただ悲しみだけだった。
「おとっちゃん、金は毎月欠かさず送ったばい。」
「それなら何故つかんのだ。分かったような嘘をつくな。」
重正は一刻も早く家を出たかった。足はいつしか嘉子の家に向いていた。嘉子の家に近づくと、長太郎は薪割りに精を出していた。彼の後ろ姿を見た途端、重正の胸にこみ上げるものがあった。その瞬間長太郎もふり向いた。
「おお重じゃないか。ようもんてきたねえ。」
と同時に大粒の涙を長太郎は地面にぽろぽろ流した。
「早うあがれや。われの帰りをどれだけまっとったか。」
「まあ重ちゃんよう帰ってきたなあ。嘉子もそろそろ帰ってくるからな。」
イチノの目も濡れていた。そこへ嘉子が帰ってきた。
「し、重ちゃん。」
嘉子は重正に取りすがって泣いた。
「おらあ法子たちに知らせてうまいもんでも見つけてくるがや。重も疲れとるけにうまいもん食わせてやらんとなあ。」
そう言って長太郎は買いもの籠を下げて出て行った。